2022年9月11日礼拝説教「愛を目指して」

聖書箇所:テモテへの手紙一1章3~7節

愛を目指して

 

 使徒パウロからエフェソ教会の監督であったテモテに宛てて書かれた手紙から、今日も共に学んでまいりましょう。この手紙でパウロがまず命じていることが、3節から4節前半にかけて記されます。教会は、その初期の時代においても立派な信仰者のみが所属する完璧な集団ではありませんでした。パウロが過去にエフェソからマケドニア州に出発したときから、すでに指導すべき人々がエフェソ教会にいたようです。

 この人々が心奪われていたのは、どのような教えでしょうか。3節の最後で挙げられている「異なる教えを説いたり」とは、原文では「違ったことを教える」という一つの単語です。すなわち、聖書を用いながらも違うことを教える人々です。また4節に挙げられている系図は、旧約聖書にある系図のことでしょう。ここで挙げられているいずれもが、聖書に基づく間違った教えです。このような聖書に基づく間違った教えを教えたり、そのような教えに心を奪われたりしないようある人々に命じるようにと、パウロはテモテにこの手紙でまず指示したわけです。

 ところで3節の「命じなさい」という言葉は、主に軍隊における命令で用いられていた言葉であったと言われています。軍隊の命令ですから、強制力をもっています。お願いではなく、命令です。教会内にもし間違った聖書理解があるならば、教会を治める立場にある者が強制力を持って正す義務があるのです。それが正しい聖書理解に基づく命令であるならば、教会員はそれに従わなければなりません。では正しい聖書理解とは、どのようなものでしょうか。その境界線を、4節後半以降からある程度読み取ることができます。まず4節後半では、間違った教えに心を奪われている人々の「無意味な詮索」が「信仰による神の救いの計画の実現」と対比されています。聖書は本来、信仰による神の救いの計画の実現のために用いるべきであるということです。ここに正しい聖書理解か否かの一つの境界線があります。

この境界線は、続く5~6節においても記されています。清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指す。これが、いわば正しい聖書理解から生じる実践です。清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛。これはキリストの十字架に示された、相手のために自らをささげる神の愛です。このような愛はわたしたちの中には本来ありません。しかし目指すことはできるのです。この愛を目指して奮い立たされるか、それともそこからそれて無益な議論の中へと迷い込むのか。ここにも、正しい聖書理解に基づくか否かの境界線があるのです。

 すでに示したとおり、異なる教えを説いたり作り話や切りのない系図に心奪われている人々もまた聖書を信じています。問題は、聖書を用いる目的です。聖書は、神の救いの御計画を実現するために用いるべきものです。そして神の救いの実現のために用いるとき、十字架のキリストに示された神の愛を目指す行動が生じるはずです。神の救いの御計画は、十字架のキリストの愛が中心にあるからです。パウロはローマ13章で「愛は律法を全うする」と書いています。この愛を脇において議論を重ねても、それは聖書の正しい教えに至ることはありません。しかしそのような状況が、エフェソ教会にあったのです。なぜ、このような議論が教会の中に生じてしまったのでしょうか。7節にその原因が指摘されています。彼らは自らの言っていることも主張していることも理解していない。にも関わらず、自分が聖書の教師でありたいと思っている。このギャップに原因があります。彼らは、自分が聖書の教師であり続けたるために聖書を用いています。ここから間違った教えや無意味な詮索が始まるのです。自らを守る目的でいくら聖書を学ぼうとも、そこには神の救いの御計画やキリストの愛はありません。それは誰かをキリストの十字架に導いて救うための学びではなく、自分のための学びだからです。これこそが、パウロがやめさせよと書いている「異なる教え」や「無意味な詮索」の正体です。

 聖書には、議論となっている事柄が様々あることは事実です。それが、神の救いの御計画の実現のための議論ならよいのです。しかしもし、自分の立派さを守るためになされるならば、あるいは自らの正しさによって相手を打ち負かすことが目的ならば、それはパウロが指摘する無意味な詮索、無益な議論に他なりません。ですから、牧師や教師だけでなく誰もが聖書の用い方に注意しなければなりません。自らとは立場の異なる誰かを打ち倒す口実として、聖書の言葉を使った経験はないでしょうか。自らの立派さを証明するために聖書の言葉を用いたことはないでしょうか。世の人々に自らの正しさを示すために聖書の言葉を引用したことはないでしょうか。そんなことは今までにしたことがない、と言える方はいないでしょう。わたしを含めて、そうなのです。そのような自分を守るための聖書の用い方は、無意味で無益だとパウロは記します。そんな聖書の用い方は、もうやめさせるようにとテモテに命じるのです。

 

 信仰による神の救いの御計画の実現のために聖書を用いること。キリストの愛を求めて聖書の言葉に従うこと。これらの目的のためにこそ、聖書に記されているすべての御言葉は理解され、用いられる必要があるのです。わたしたちは十字架のキリストの愛のゆえに、すでに正しい者とされています。もはや聖書を用いて自らの正しさや立派さを主張する必要はありません。だからこそ、ただただ十字架のキリストの愛を求めて、そして神の救いの御計画がこの地上で実現するために、聖書の御言葉に聞き従うものであろうではありませんか。