2022年10月9日礼拝説教「罪人のなかで最たる者」

聖書箇所:テモテへの手紙一1章12~17節

罪人のなかで最たる者

 

テモテが仕えていたエフェソ教会の困難は、律法の教師でありたいと思う人々によって引き起こされていました。彼らは自分を正しい者と思い、その証明のために律法を用いていました。そのような律法の用い方は誤りであるが、本来の目的に従って用いれば律法は良いものである。それが、前回までの箇所において書かれていたパウロの最初の主張でした。

それに続く今日の箇所で、パウロは自分自身のことについて語り始めます。パウロの証しです。パウロの証しは、単なる自分語りではありません。自らの語る律法理解を証明するために語られたものです。パウロは、エフェソ教会で律法の教師でありたいと思っていた人々を批判しました。一方パウロ自身は律法の教師です。そうであるならば、律法の教師でありたいと思っていた人々と、律法の教師である自らの違いを明確にしなければなりません。その違いが、この証しから示されていきます。

ここでパウロが強調するのは、自分をこの務めに就かせてくださったのは「神だ」という点です。神が強めてくださったのであるならば、パウロはもともと弱かったということです。神が忠実な者と見なしてくださったのであるならば、パウロはもともと忠実な者ではなかったということです。したがって本来パウロ自身は、この務めを果たすのにまったく相応しい者ではありませんでした。どれぐらい相応しくない者だったかが13節に記されています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。この言葉が、まさにパウロの身に起こりました。だからこそこの言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するのです。ところでパウロが13節で示した自らの姿は、彼が回心する前にキリスト者を迫害していたときのことを語ったものでしょう。その後パウロは回心し、使徒として各地に教会を建てました。彼がこの手紙を書いたのは、彼の生涯のなかでも晩年であったと言われています。彼はこのときすでに、目覚ましい働きを成し遂げていました。そのパウロが、15節の後半で「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と書くのです。過去形ではありません。現在形で、今もなおわたしはその罪人の中で最たる者だとパウロは自らを評価しています。このパウロの自己認識は注目に値します。これだけ神に仕えて結果を残したのだからわたしは罪から解放された、あるいは自分は他の人よりも優れている、とは決して考えていません。今なおわたしは、罪人の中で最たる者である。それでも神はわたしを憐れみ、限りない忍耐を示してくださっている。それが、目覚ましい働きをした後のパウロの自己理解でした。罪人の最たる者としての自らの低さと、神の憐みや忍耐の豊かさ。このギャップを、彼は今なお驚きをもって書くのです。そのギャップの大きさのゆえに、神を賛美するのです。

これに対して、パウロが批判していた律法の教師でありたいと思っている人々はどうだったでしょうか。彼らは自らの律法理解や行動をとおして、自らの正しさを主張していました。自らは罪人を卒業した、あるいは少なくとも周りの人々よりは自分の罪の程度は軽いと考えていたのでしょう。しかし自らを正しいと見なすならば、そこにはもはや憐みも恵みもありません。自らを上げれば上げるほど、自らと神の恵みとの間のギャップは小さくなっていきます。それでは神への賛美が生まれることもありません。それが律法の教師でありたいと思っている人々の姿でした。

教会を建てあげるうえで、教会の中から起こる困難。それは安易に罪人であることを卒業しようとするところから起こります。もちろんわたしたちは罪を憎み、そこから離れるために努力します。罪の中に生きることそのものが悲惨だからです。その一方で、この地上の歩みにおいてわたしたちは最たる罪人であり続けるのです。そのことは、パウロも自身もローマ7:15で語っていることです。またハイデルベルク信仰問答114問にも、「聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません」と書かれています。これが救われてもなお罪を犯し続けるわたしたちの現実です。どれほど神に仕えようとも、誰かと比べて自らを誇ることなどできないのです。しかしそれは望みのない嘆きではありません。なぜなら「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」からです。それが、神の律法に示された神のお姿です。

 

この困難な時代のなかにあって、教会設立という特別な恵みがわたしたちに与えられています。この恵みがわたしたちに与えられたのは、わたしたちの信仰が他の教会よりも優っているからではありません。わたしたちが他の教会と比べてより熱心に神に仕えたからでもありません。わたしたち自身はどこまでも、パウロと同じように罪人のなかで最たる者です。しかしわたしたちにこの現実があるからこそ、わたしたちをとおしてなされる良き業はすべて神の忍耐の結果であり、神の憐みの結果であり、神の恵みの結果なのです。神の御業ですから、わたしたちの弱さによって揺らいだり失われたりするものではありません。わたしたちが救われてもなお罪人の最たる者であることは、神の恵みを前にしてはむしろ希望です。キリストは罪人を救うために世に来てくださったからです。こうして救われた罪人であるわたしたちは、神をほめたたえることへと導かれます。そして神の御業がより多くの場所で、多くの人々によってほめたたえられるために、罪人であるわたしたちが罪に苦しみながらも神に仕えるのです。罪人を救うという神の御業は、罪人にしか語ることはできません。この大いなる恵みの出来事を、罪人の最たる者でありながら救われた者として、讃え続けようではありませんか。そして神を讃える教会を、建てあげていこうではありませんか。