聖書箇所:テモテへの手紙一3章1~7節
神の教会の世話役
本日は、監督の資格についてです。監督とは、教会を中心になって治める働きです。現代においては牧師とほぼ同様の働きと見てよいでしょう。ここでパウロは、新たに監督の職を求める者が与えられたときのことを指示しています。牧師になることを決意した人が与えられることは、教会にとって大きな喜びです。当時のエフェソ教会も同じだったでしょう。ただ、監督が重要な働きであるがゆえに、その職を希望する人をどのように導くかは、教会全体を左右する事柄です。パウロは冒頭で、監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいると書きます。だからと言って、望む者は誰でもその職に就かせよ、とは書かれていません。聖書において「良い」とは、神の御心にかなうという意味です。御心にかなう働きだからこそ、御心に基づいて神に召された人がこの働きにつかなければなりません。それを判断するのは、教会の大切な働きの一つです。では教会は、それをどのように判断するのでしょうか。神にお伺いを立て、その声を直接聞くことによって判断すべきでしょうか。パウロはそうは書きません。彼は2節以降で、愚直なまでに現実的な条件を一つ一つ挙げています。この資格を満たすと教会が判断した人こそ、神によって監督の職に召された者なのだとパウロは示すのです。彼が挙げる資格を見ますと、誰もが「自分にはとても当てはまらない」と思うでしょう。ただしここでの内容は、本来的には自己判断のために与えられたものではなく、教会が新たに監督になろうとしている人を判断するためのものです。それを踏まえますと、皆さんの周りにも「あの人ならばこの条件を満たしていそうだ」と思えるような人がいるのではないでしょうか。
さて、2節以降でパウロが挙げている監督の資格を見ますと、「よく教えることができること」以外の大半は他者との関係に関することです。監督の職を求める人には、その人自身が何を持っているかよりも、その人が他者とどう関り、どのような評価を得ているかという点に、よりはっきりと神の召しが現れるのです。2節で最初に挙げられているのは、非の打ちどころのない人です。これは、その人自身が完璧人間であることを求めるものではありません。周囲の人々から非を指摘されることのない人です。弱さがあっても、ときに失敗することがあっても、あぁこの人は責められないな、それでも信頼できるなと思える人が、皆さんの周りにもいるでしょう。そのような信頼感は、教会の指導者として不可欠です。そのあとに3節まで続く条件もまた、最初に挙げられた「非の打ちどころのない」という条件と同様の意図があるでしょう。
続く4節からは、自分の家庭をよく治める人が挙げられています。その理由は5節に記されています。ここで家を治めることが、教会の世話と結び付けられています。世話と訳されている言葉は、ルカ10章の良きサマリア人のたとえでは「介抱」という言葉と同じです。教会の世話とは、教会を介抱することです。それが家庭を治めることとつながっています。ですから家庭を治めるといっても、上から押さえつけて従わせるのではありません。傷ついた者がいれば神の御業として家族を介抱するのです。また監督は、信仰に入って間もない人ではならないと命じられています。その理由は、高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。高慢になることの問題点は、直前の箇所で挙げられていた一部の婦人たちの姿を見れば明らかです。信仰に入ったばかりの人は、信仰的に燃えています。それが、他者を見下して傲慢になることへとつながりやすいのです。さらに監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。使徒言行録には、使徒たちが人々から非難される様子が記されています。その非難の矛先は、どこまでも彼らの伝えていた教えに向けられています。生活態度や不道徳について使徒たちが責められている箇所はありません。監督もまた、そのような生き方にならう人でなければなりません。
ここで挙げられている監督の資格は、監督の働きの内容とつながっています。監督は、他者との良好関係の中で教会の世話役として教会を治めます。教会の世話役とは、教会を介抱することです。つまり教会には、介抱を必要とする破れがあるということです。教会の中で見られる弱さや破れを、ただただ批判してその傷口を広げるような治め方は、教会にはふさわしくありません。教会に集う人々の傷や痛みを介抱することによって、教会は治められるのです。この働きの先頭に立たれたのが、十字架にかかられた主イエスキリストです。教会に集う人々の痛みを介抱することによって、キリストは教会を治められます。その働きの先頭に立つのが教会の監督なのです。しかしこの働きをなすのは監督だけではありません。教会を治めることが教会の世話をすることならば、傷ついた誰かを介抱してキリストの許に導くこともまた教会を治める働きなのです。監督や牧師でなくとも、誰もが教会においては教会の世話役として役割を担うのです。そのためにも、今日の箇所で挙げられている監督の資格を誰もが心に留めたいのです。今以上にキリストの御心にかなうかたちで教会のお世話ができるように、誰もが監督の資格にある姿を目指してもよいのです。そしてまた、皆でここに示された資格を目指して歩む中で、新たに牧師に召される兄弟姉妹が起こされていくのです。浜松教会からも、牧師になりたいと、あるいは牧師に限らずとも御心のために良き働きをなしたいと願う人が起こされるよう願い続けたいのです。そのためにもまず、ここに集うお一人お一人がそれぞれに、ここに挙げられた監督の資格を目指し続ける者でありましょう。そして教会の世話役として、共に御心にかなう良き働きを担っていこうではありませんか。