聖書箇所:創世記28章10~22節
主がおられるのに、わたしは知らなかった
ヤコブが神と出会う場面を今日は共に学んでまいりましょう。これまでの彼の生涯のなかで、神が彼に直接語りかけられたことはありませんでした。彼が生まれる前に、母のリベカに対しての語りかけはありました。けれども彼が直接神の声を聞いたことはありません。そんな彼の生涯において、主なる神はどこか遠い存在でした。その彼が、決定的な神との出会いをする。それが今日の箇所です。神との決定的な出会いはいったいどのようなときに起こるのでしょうか。そしてその出会いは、神と出会った人をどこへ導くのでしょうか。それを今日の箇所から学びたいのです。
ヤコブが神と出会ったのは、兄から逃げる旅路の途中でした。彼は何もかもを失って、見知らぬ土地へ行かなければなりませんでした。失意と不安の中での旅です。その旅のなかで彼が眠りについたとき、主なる会との出会いが与えられたのでした。寝ていたわけですから、彼から神に対して行動を起こすことも、思いを向けることもできません。あえてそのような時に、神は彼と出会われたのです。神との出会いは、どこまでも神の側のご意思によります。人の側が何かしたから神は出会ってくださるのではありません。わたしが自分の力を失うとき、失意のどん底に落ち、自分の力ではどうしようもない状況に打ちひしがれるときにこそ、神との出会いが与えられるのです。
神とヤコブとの出会いの場面は、ヤコブの見た映像(12節)と主なる神の言葉(13〜15節)に分けられます。重要なのは後者です。この主の言葉がどういった類のものかを補足するのが、12節でヤコブの見た映像なのです。ここで天にまで届く階段が地から伸び、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしている様子をヤコブは見ます。つまりそこは、天と地がつながる場所であるということです。聖書で言うところの天は、神がおられ神のご支配が実現している場所を指します。階段によって天と地がつながるその場所は、地にあって神との出会いの場所であるということです。そして実際に、その場所において主がヤコブに語りかけられたのでした(13〜15節)。13,14節は、すでにアブラハムとイサクに約束された内容の繰り返しです。そして15節が、初めて語られた神の約束です。ですから今日は15節の部分に注目してまいります。ヤコブは今、兄から逃げる旅路の途中にあります。行き先は異教の地です。主なる神など誰も信じていない土地です。そんなところへ、ヤコブは行かなければなりません。もはや神はわたしから離れ去ったと思わずにはおられない状況です。そのような彼に対して神は、15節の約束をなされました。この約束が、約束の地である慣れ親しんだカナンから異教の地へと離れていくヤコブにとって、本当に大きな励ましになったことでしょう。これが、ヤコブと神との出会いでありました。
こうして神との出会いを果たしたヤコブの反応が16,17節に記されます。この反応には、神との出会いがヤコブにとっていかに想定外だったかが表れています。もはや神はわたしを見捨てたと彼は思ったのです。それはすべて、それまでの彼自身の行動に原因があります。こんな自分を、神は見捨てて当然だ。彼はそう思っていました。だから彼は知らなかったのです。自分がいるこんな場所に主がおられることを。こんな自分と、主なる神が出会ってくださることを。そして彼は18節で枕にしていた石をとり、記念碑として立て、油を注ぎます。これは神への礼拝です。思いがけず神との出会いを果たすとき、人は礼拝へと導かれるのです。そして20節以降で、ヤコブは誓願を立てたのでした。これは主なる神を自らの神とし、このお方に仕えることの誓願であり、信仰告白とも言えます。神との出会いは、神を礼拝し、神に仕える決心をする信仰告白へとつながっていくのです。ところで請願の前半でヤコブは「もし~してくださるなら」といくつかの条件を挙げています。これらはいずれも、15節ですでに神が約束してくださったことに基づいています。神の語ってくださった約束を、どこか心から信じることのできないヤコブの弱さが表れています。しかしそれがわたしたち人間の現実でありましょう。それでも神は、その約束を確かに実現してくださいます。だからこそわたしたちは、その驚きのなかで神を礼拝し神に仕えるのです。
15節において与えられた神の約束は、主を信じるわたしたちにも約束されています。すなわち神はわたしたちにも、わたしはあなたと共にいると約束してくださっています。そのために神は、インマヌエル(神は我らと共に)と呼ばれる主イエスキリストをクリスマスにお与えくださいました。それゆえに民数記6:24の祝祷の言葉は、わたしたちにとって確かな約束なのです。そしてまた神は、わたしたちを神の御許へと帰らせてくださいます。どれだけ神が離れていると思えるような状況にあっても、神は必ずわたしたちを帰らせてくださるのです。神はこの約束を果たすまで、決してわたしたちを見捨てることはありません。キリストがわたしの代わりに見捨てられたからです(マタイ27:46)。このように、神の約束の実現の根拠はすべてキリストの十字架にあります。
わたしたちは今週もそれぞれの場所へと遣わされます。教会とは違い、そこは神を感じられない場所です。現実と向き合わなければならない場所です。ときにそのなかで、わたしたち自身もまた神から離れて生きてしまうこともあるでしょう。それでも神は、わたしと共にいてくださいます。わたしを見捨てることなく、わたしと出会ってくださいます。主日ごとに神の御許である教会の礼拝へと帰らせてくださいます。ここにキリスト者であるわたしたちの揺るぎない希望があります。だからこそわたしたちは、この希望を仰ぎ見つつ神を礼拝し、神に仕えてこの世のただ中を生き続けるのです。