2022年12月4日礼拝説教「その名はインマヌエル」

 

聖書箇所:マタイによる福音書1章23節、イザヤ書7章1~17節

その名はインマヌエル

 

 今年のクリスマスにおいては、マタイ福音書のクリスマスの物語を取り上げる予定です。そこには、旧約聖書の預言書を前提とした記載があります。アドベントの期間には、つながりのある旧約聖書の箇所から御言葉に聞いてまいります。今日取り上げるのは、インマヌエルです。主イエスキリストはインマヌエルとしてお生まれになりました。それは今日のイザヤ書の御言葉に結び付いています。では主イエスがインマヌエルと呼ばれる者としてお生まれになったことは、わたしたちにいったい何を示すのでしょうか。そのことを、ひととき教えられてまいりましょう。

 今日のイザヤ書の箇所では、ユダの王アハズと預言者イザヤとのやり取りが記されています。ユダは、ダビデ王の子孫が代々王を務めた国でした。神はかつてダビデに対し、ダビデの子孫を決して断つことはないと約束されました。それゆえダビデの子孫が王であるユダは、神の守りが約束されている国でありました。しかしその国の民も王も、神の守りが離れ去ったかのように心が揺れ動いています(2節)。それはアラムがエフライムと同盟したためでした。アラムもエフライムも、ユダより豊かで強い国です。その二つの国が協力して、ユダの首都エルサレムを攻めようとしています。とても勝ち目はありません。死が目前に迫っています。それゆえに、王の心は揺らぎました。ところでアハズ王は、主の目に正しいことを行わない王でした(列王記16章)。しかし敵対する大国の同盟を前にして動揺する姿を、不信仰と言って切り捨てることはできません。同じような状況に置かれれば、神を信じる者であっても動揺するでしょう。そのアハズに対して、主は語りかけられます。動揺していることへの断罪ではありません。落ち着いて静かにしていなさい、との招きでした。なぜなら神は、ダビデへの約束を守られるからです。しかしそのことを信じなければあなたがたは確かにされない、とも示されます。そして信じることができるように、そのしるしをあなたの神に求めよとイザヤは言ったのでした(11節)。これに対するアハズの回答は、「わたしは求めない」でした。主を試すようなことはしない、と。確かに主を試してはならないと律法には書かれています。けれども結句よくのところアハズは、主を頼りにはしないことを表明したに過ぎません。自らの能力、自らの政治力、自らの統治力を頼りにする。それがアハズ王の回答であり生き方でした。それに対して、イザヤは答えます(13節、14節)。ダビデの家とは、主が守り確かなものとするとダビデに約束された血筋です。アハズはその約束の血筋にある人です。それにもかかわらずアハズは主を信用せず、神に頼ろうとしませんでした。守りを約束された神から見れば、こんなもどかしいことはありません。それゆえ主が御自らしるしをお与えになられるのです。信じない者が、信じるために。信じられないがゆえに心が揺らいでいる者が、信じて神の確かな守りに頼るために。そのためのしるしがインマヌエルの誕生でした。この子をとおして、今にも死を迎えんばかりの状況に置かれた人々に、神が共にいてくださることが示されるのです。

 このインマヌエルをとおして与えられるしるしが、16、17節に示されます。このしるしは、インマヌエルの成長と共に示されていく特徴を持っています。彼はいずれ成長し、災いを退け、幸いを選ぶことを知る年になるでしょう。そうなる前に、アハズの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられます。それによってアハズの危機が去り、守られることになります。アハズが信じようが信じまいが、神は約束を守られます。けれどもそのしるしは、神の約束を信じないアハズ王にとってハッピーエンドにはなりません。その後アッシリアによってもたらされる新たな危機が同時に告げられます。一難去ってまた一難。それどころか、より大きな危機がやってくるのです。それゆえ信じないアハズの恐れは取り去られることはないのです。

 信じることができなくとも、神はご自身の民を守られます。それが神の約束だからです。しかし問題は、神の民が危機の中にあっても神の守りに憩いつつ歩むことができるかどうです。それはインマヌエルの誕生と、その後の彼の歩みをとおして与えられる神のしるしを信じるかどうかにかかっています。信じると災いがなくなるわけではありません。信じるか信じないかにかかわらず、災いは来るのです。わたしたちの人生においても、そうではないでしょうか。しかしインマヌエルをとおして与えられる神のしるしを信じるならば、どのような危機のなかにあっても心を確かにして歩むことができるのです。主の守りという確かな土台の上に、自らの歩みを据えることができるからです。

 

 それでは、話を主イエスキリストに戻しましょう。インマヌエルとして誕生されたこの方の歩みにおいて、神のしるしが示されました。どれほど苦難の中にあったとしても、神が見捨てることなく共にいてくださる。このことがキリストの御生涯、とりわけ十字架をとおして示されたのです。この方をとおして示された神のしるしを、わたしたちは信じることができるでしょうか。そのいかんによって、わたしたちもまた、心確かに生きることができるかどうかが分かれるのです。どのような危機の中にあっても、神が確かにお守りくださる。この安心感のなかで生きるのと、神の守りの中にありながらも自分がいつ死ぬかもわからない恐怖の中で歩み続けるのと、どちらがよいでしょうか。世の中での歩みは、危機の連続です。そのなかで自らの力に頼っては得られない心の確かさを、インマヌエルである主イエスキリストはお示しくださいました。このお方によって示された神の守りを信じることによって、わたしたちは揺らぐことのない確かな人生を歩むことができるのです。