聖書箇所:出エジプト記12章1〜14節
「救い」から年を始める
あけましておめでとうございます。「新年」と聞くだけで、わたしたちは何か新しい時が始まったような気持ちになります。しかし実際には、昨年と本年で時の流れに変化があるわけではありません。「年」とは、続いていく時の流れのある期間を区切ったものにすぎません。その区切りにしたがって、わたしたちは何かを始めたり決意をしたりするわけです。では神の民である古代イスラエルの人々は、年の区切りをどのように定めたのでしょうか。今日は旧約時代のお正月に着目してまいります。ここに記されているのは、過越祭というお祭りです。この祭りをもって、神の民は一年の歩みを始めました。正月といいましても当時は暦が異なり、今の3~4月にあたります。主イエス・キリストは、過越祭の期間のなかで十字架にかけられて死に、復活されました。それゆえ旧約時代のお正月の時期に、わたしたちは受難週とイースターを祝うわけです。
さてこの12章でまず言及されているのが、料理です。わたしたちでいうところのおせち料理です。しかし年末から準備を始めて、年明け早々に食べるのではありません。お正月の10日になってから準備を始めます。取り分けるのは傷のない一歳の羊です。それを家族ごとにとりわけます。家族の人数が少なく余るのであれば、近隣の家族で分け合うことも命じられます。この羊は、1月14日まで取り分けておきます。その日の夕暮れに羊をほふり、その血を家の入口に塗るのです。ですから14日の夜になれば、どの家で聖書に従って正月を迎えているかは一目瞭然です。一方でほふった羊の肉は、焼いてみんなで食べます。その際、酵母の入れないパンもまた、苦菜を添えて食べるよう命じられています。この料理を食べる際には、服装や食べ方にも決まりがあります(11節)。すぐにでも旅に出ることができるような服装で食べることが命じられています。しかも料理は早食いしなければなりません。翌朝まで残すことは禁じられました。
なぜお正月に、旧約時代の神の民はこのようなことをしていたのでしょうか。それは新年と過越祭が定められた状況に関係しています。かつて神の民は、奴隷としてエジプトにいました。神がこの民をエジプトから救い出される流れのなかに、今日の箇所は位置しています。神の民を救うために、神はエジプトにいくつかの災いをもたらされました。エジプトの王ファラオは、神の民を去らせることを頑なに拒否していました。そこで最後の災いとして神は、人であれ家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃たれます。撃つとは、暗に殺すという意味です。初子とは、その家を継ぐ存在であり、その家の力の源です。エジプトの力の源を、神は徹底的に撃つことにされたのです。神の裁きの宣言です。本来であればこの神の裁きによって、神の民の初子も撃たれるはずでした。しかし家の入口に羊の血が塗ってある家を、神は過ぎ越されました。それゆえにお祭りの名前は、過越祭となったのです。神の言葉に従って羊の血を家の入口に塗っていた家には、災いは下りませんでした。神の民は、羊の血のゆえに神の裁きを免れたのでした。しかしそれ以外の家では、力の源である初子が家畜に至るまで徹底的に撃たれました。神がエジプトの国を撃たれたのであり、エジプトで信仰されていたすべての神々を撃たれたということでもあります。初子を撃たれたファラオをはじめとするエジプト人たちは、すぐに神の民を去らせました。こうして神が、奴隷とされていた神の民をエジプトから救い出してくださいました。
出エジプト記12章で命じられていること一つ一つは、このエジプトからの救いの追体験を意味しています。羊の血を家の入口に塗ることは、神の裁きが過ぎ越されたことを意味します。苦菜はエジプトでの苦難を指しています。パンに酵母を入れないのは、エジプトから救い出された際にパンを発酵する時間がなかったからです。すぐに旅ができる格好で、急いで食事をするのも、同じ理由です。神の民はお正月に過越祭を祝うたびに、過去に起こった出エジプトによる神の救いの御業を、自分の救いの出来事として追体験するのです。この過越祭において、主イエスキリストの十字架と復活の御業がなされました。かつての神の民がエジプトの神の過ぎ越しによって救われたように、わたしたちはキリストの十字架と復活によって救われました。かつて行われていた過越祭そのものが、主の十字架と復活を指し示す祭りであったのです。家の入口に塗る羊の血は、主イエスの十字架の血を指しています。この血によって、神の民は罪人であっても神の裁きを免れるのです。この神の過ぎ越しによって、わたしたちは救われたのです。
それを覚えるのが、このあと行う聖餐式です。そこにこそ、わたしたちが救われた証があります。罪人のわたしたちが、その罪ゆえに撃たれることは決してないという保証です。大切なことは、旧約時代の神の民がこの救いの体験から一年を始めたことです。それは決して救われるための歩みではありません。すでに救われた者として、神のたたえながら歩む。それが、過越祭から年を始める旧約時代の神の民の歩みでした。この点は、新約の時代を生きるわたしたちも全く同じです。わたしたちが神の民であるのは、主イエスキリストの十字架の血によって、神がこのわたしの裁きを過ぎ越し、救ってくださったからです。このあとの聖餐式をとおして、わたしたちはこの救いの御業を追体験します。罪人であるはずのこのわたしは、主の十字架のゆえに確かに救われました。この喜びと救いの体験から、この礼拝に集うわたしたちはこの一年の歩みを始めます。主イエスの十字架によってわたしたちに与えられた神の愛は、決して揺らぐことはありません。この恵みに押し出され、神をたたえる今年一年の歩みを共に始めてまいりましょう。