聖書箇所:テモテへの手紙一3章8~13節
仕える者として生きるために
直前には、教会における監督の職について記されていました。それに続く本日の箇所で、奉仕者の資格について記されます。新改訳聖書では、奉仕者が執事と訳されています。原点ギリシア語では、ディアコノスという言葉です。ですから執事とは、ディアコニアをする人であり、奉仕をする者です。監督が教会を治め導く働きである一方、奉仕者は僕として教会に仕える働きです。監督と奉仕者は、それぞれ固有の働きを担当します。両者に霊的な上下関係が意図されているわけではありません。奉仕者は、この当時から教会内において特別な役割を担う役職でありました。ところで主イエスは弟子たちに、互いに仕えあいなさいとお命じになっておられます。であるならば仕える働きは奉仕者に召された人だけでなく、誰もがなすべき働きです。ここにいる誰もが、自らのこととしてこの御言葉に聞く必要があります。
この奉仕者の働きにつく人の資格が、いくつか挙げられています。そこではその人が何をなしたかではなく、その人自身がどのような人物かが問われています。どれだけ人に仕えるかよりも、どのような者として仕えるかが大切です。奉仕者の資格として最初に挙げられているのは、品位ある人です。尊敬に値する人という意味で、求められるのは思いやりや聡明さです。ある注解書には、現実的な見解を持っている人と説明されていました。奉仕者が仕える教会や人々には、何かしらの欠けや問題があることが大半です。理想論を振りかざしてそれを非難するのではなく、現実的な寄り添いができる人こそ、奉仕者にふさわしいのです。続いて、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらないことが資格として挙げられています。これらは他者からの信頼に関係します。また、二枚舌も大酒も恥ずべき利益も、自らの益を求める姿です。奉仕者は、仕えることそのものが目的です。自らの益を目的にして他者や教会に仕える人は、奉仕者に召されるべきではありません。続いての資格は、清い良心のうちに信仰の秘められた真理を持っている人です。秘められた真理とは、主イエス・キリストによって明かされた真理を指します。端的に言ってしまえば、キリストの十字架による救いです。清い良心のうちに、つまり打算や強制され嫌々ながらに奉仕するのではなく、自らが良いと思う行動によってキリストの十字架による救いを醸し出す人。これが奉仕者としてのあるべき姿です。
10節には、奉仕者になろうとする人々もまた審査を受けるべきだと命じられています。自己判断だけではなく、その人が奉仕者にふさわしいかどうかを教会が判断することが必要です。人は誰しも罪人ですから、御心にかなう自己判断ができるとは限りません。それゆえ教会の審査を経ることによって、神の召しが明らかにされることが必要です。
11節からは、婦人の奉仕者たちについての条件が挙げられています。当時の教会において、中心的な役割を担う女性たちがいたことは確実です。それは男性優位であった当時の社会常識からは驚くべきことでした。だからこそパウロは、婦人たちに対してより丁寧に奉仕者の資格について記すのです。11節で「婦人の奉仕者たちも同じように」とありますから、婦人の奉仕者たちだけに多くの資格が課せられたのではありません。婦人の奉仕者たちは特にこの点に気をつけるべき、というパウロによる配慮の記載です。
続く12節では、奉仕者に対して求められる家庭での姿について記されます。治めるとは、世話をする、援助する、面倒を見るという意味を持つ言葉です。家庭においても奉仕者であり、仕える者であることが大切です。なぜなら奉仕者の務めは、教会において特別な恵みを受けるからです。奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、教会内で良い地位を得ます。その人が兄弟姉妹から尊敬され、教会の顔となるのです。仮にそのような人の家庭に愛がないならば、教会全体に対する周囲の人々の評判が損なわれます。それでは教会をとおしてキリストの愛が示されていきません。立派な奉仕者が良い地位を得るからこそ、教会だけでなく家庭においても奉仕者であり仕える者であらねばなりません。また奉仕者がその務めを立派に果たすとき、キリストへの信仰によって大きな確信を得るようになります。奉仕者の働きは、キリストの愛を示す働きだからです。今日の箇所において奉仕者の資格がいろいろと挙げられています。これらはすべて、主イエスのお姿に重なります。このお方は、自らが得ることよりも人々に仕え、自らを与えて歩まれました。その最たる姿が、十字架です。この十字架に示されたキリストの愛を分かち合う。これが、奉仕者の働きです。それを見分けるための資格が、この箇所で挙げられています。結局のところ罪人を救うのは、キリストの十字架の愛をおいて他にありません。奉仕者自身もまた、キリストの愛を求めて人々に仕えるのです。そのとき奉仕者は、キリストの愛が人々を救い、立ち上がらせていく姿を目の当たりにすることになります。こうして奉仕者自身もまた、キリストの十字架による救いに、大きな確信を得るようになるのです。
わたしたちは皆罪人です。ですから、純粋に誰かのために自らを犠牲にすることなどできず、自分に何かを得るためにしか誰かに仕えることはできません。だからこそ、何を求めて仕えるかが大切です。わたしたち罪人を救うことができるのは、ただキリストの十字架の愛のみです。自らの益ではなく、キリストの愛を求めて、わたしたちは教会と人々に仕えるのです。その中心に立つのが、奉仕者、執事という人々です。しかしキリストの愛を必要とするのは、執事だけではありません。誰もがそれを求め、僕として人々に仕えるのです。これは決して自己犠牲のボランティアではありません。わたしたちにはキリストの愛が必要なのです。だから、人々に仕えるのです。