2023年1月15日礼拝説教「神の家である神の教会」

聖書箇所:テモテへの手紙一3章14~16節

神の家である神の教会

 

テモテへの手紙は、エフェソ教会の監督であったテモテに宛てて使徒パウロが書いた手紙です。ここには、この手紙を書いたパウロの思いが吐露されています。彼は、本来ならば自らエフェソ教会に出向いて指導したいと願っていました。しかしすぐにはエフェソに行けそうにない事情が、パウロにはあったようです。その制約の中で、なんとかエフェソ教会のためにできることをしたい。その思いが、パウロにこの手紙を書かせました。そのパウロが持つ教会への思い、彼の教会理解が、この箇所にはよく表れています。

パウロはまず「神の家」という言葉を用いています。それは旧約においては神の神殿を指す言葉です。この神の家についてパウロは「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」と書いています。ですから神の家は、生活と離れた場所ではありません。信仰者の生き方そのものに関わる場所です。そのような神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会なのだとパウロは記します。ですから教会には、教会にふさわしい生活の仕方、ふさわしい生き方があるのです。神はこの箇所をとおしてわたしたちにも、教会に結ばれ、それにふさわしく生きてほしいと願っておられます。それゆえ聖書を信じるならば、教会に生きることが当然伴うのです。

なぜ教会が大切なのでしょうか。そこは生ける神の教会だからです。今も生きて働いておられる神が、教会をとおして働かれるのです。また教会は、真理の柱であり土台です。聖書に示された真理は、キリストを信じた個々人によって立つのではありません。信者の集まる教会によって立つのです。この真理は、信心に秘められる形で示されます。信心とは、敬虔とも訳される言葉です。教会に集う人々の信心や敬虔さによる生き方によって、真理は人々に示されていきます。どこの教会でも、信心や敬虔さが推奨されるでしょう。もちろんわたしたちの教会においてもそうです。それらは、わたしたちが救われるために推奨されているのではありません。教会に結ばれてすでに救われたわたしたちの信心や敬虔さをとおして、真理が人々に示されていくためです。このように、教会に集う人々の生き方をとおして示される神の真理は確かに偉大だと、パウロは書くのです。

では、このようにして示される真理とは何でしょうか。その内容が16節で列挙されていきます。16節の後半部分は、当時の賛美歌の歌詞の引用だとされています。当時の教会が共通して受け入れ、賛美歌として歌われていた教会の教えの要約です。ここにこそ、教会が柱であり土台となって守るべき真理があるのです。この歌詞の内容を見てみましょう。まず、キリストは肉において現れました。救い主キリストが、真の人となって世に来られたのです。それは、キリストが十字架につけられて死なれたことまで含んでいます。人としてお生まれになって十字架で死なれたキリストは、“霊”において義とされました。この部分との関連で、一ペトロ3:18を見てみましょう。ここで「肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」とあります。ですからここでの“霊”とは、御霊なる神の働きによる体の復活を指しています。キリストは復活されることによって、ご自身が神の御前に義なる方であることが示されたのです。続く行で、このキリストが天使たちに見られたとあります。天使という言葉は、単に誰かに遣わされた人という意味でも用いられます。仮にその意味で理解するならば、ここでの「天使たち」が指すのは、主に遣わされた使徒たちです。キリストは、使徒たちに自らの復活した姿を見られました。使徒たちによって目撃されたキリストの復活が、使徒たちから始まって異邦人の間で宣べ伝えられ、今や世界中で信じられるに至ったのです。また復活されたキリストは、栄光のうちに天に昇られました。そして、今なお神の右に座し、真の王として世界を治めておられます。

 

ここまで、パウロが引用した当時の賛美歌の歌詞から真理の内容を見ました。教会が守るべきこれらの教えにこそ、わたしたちの救いの根拠があり、すべての人々の希望があります。その希望が、教会に集う人々の信心、敬虔な生活によって世に示されていくのです。ところで神の教会が柱であり土台であると言われていることは、真理が揺り動かされて攻撃されることを暗示しています。そんな教えは真理ではない。嘘っぱちで、作り話で、間違っている。そのような主張によって、真理は攻撃されるのです。もし教会がこれらの批判に屈してしまったら、人の死の先には何の希望もありません。しかし教会はキリストの十字架と復活が真理であること、すなわちこれらが本当に起こったことであると示し続けます。それが神の家であり、生ける神の教会の存在意義です。真理を示すと言っても、この真理は数学の証明のように論理を積み上げて示すことはできません。真理が教会によって示されるのは、そこに集う人々の信心や敬虔さによってです。信心や敬虔さの中心にあるのは、信じることに望みを置くことです。教会に集う人々が、他の何でもなくキリストの十字架と復活に希望をおいて生きることです。聖書に示された真理であるキリストに、その救いの御業に、ただただ自らの望みを置いて生きること。これこそパウロの教えようとした「神の家でどのように生活すべきか」の内容でありましょう。そのような教会に集う人々の生き方をとおして、生ける神がこの地上において救いの働きをなされるのです。それが、真理の柱であり土台である生ける神の教会の姿です。わたしたちは教会を建てあげるためにあれこれ考え、努力します。その根本にあるのは、聖書に示された真理であるキリストの十字架と復活に望みを置く生き方です。そのようなわたしたちの生き方をとおして、キリストの十字架と復活が確かな事実であり真理であることが、世に示されていくのです。