聖書箇所:テモテへの手紙一4章6~10節
生ける神に希望を置く
前回までの箇所では、この手紙を書いたパウロの個人的な思いが記されていました。そこでは神のために禁欲し我慢したものが優れているという功績主義への批判が記されました。すべては神が造られた良きものであり、禁欲によって我慢するべきものではない。むしろ信仰者は、感謝してこれを受けるべきであるとパウロは記しています。それに続く今日の箇所で、パウロはテモテに対して立派な奉仕者になる秘訣を記しています。それは、これらのことを教えることです。すなわち禁欲主義ではなく、功績主義でもなく、福音を福音として正しく教えることです。6節の「教える」という言葉は、もともとは「置く」という意味です。頭ごなしに教えるのではなく、種を蒔くように人々に福音を置いていくこと。それが教会における教師の務めです。このような働きをなすことにより、教える者自身が信仰の言葉と良い教えの言葉によって養われ、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。教えられる者ではなく、教える者こそが語る言葉によって養われるのです。それゆえに教師自身にとっても、教える内容が大切です。健全な福音を教えなければ、教師自身が疲弊することになります。だからこそ教師であるテモテは、俗悪で愚にもつかない作り話を避けなければなりません。それはテモテ自身がキリストの奉仕者として養われるために必要なことです。
俗悪で愚にもつかない作り話を、この手紙の中でこれまでパウロが幾度も批判してきました。それは決して、聖書から離れた異教の教えではありません。聖書にある神の言葉を用いて、禁欲主義や功績主義を主張する教えです。それが、あたかも聖書の教えであるかのように教会で語られていました。テモテはこのような教えに対抗しなければなりませんでした。それゆえ、信心のために自分を鍛えよとパウロはテモテに命じます。鍛錬が必要なのは教師や牧師だけではありません。間違った教えには誰もが直面します。それに対抗するために、誰もが信心を求めて自らを鍛える必要があります。では、信仰者はどのように自らを鍛えるのでしょうか。8節を見てみましょう。この内容は、7節で命じられている「信心のために自分を鍛えること」を「体の鍛錬」と対比させた文になっています。信心は、この世と来たるべき世での命を約束します。この意味において、すべての点で益となります。ここにおける「すべての点」は時間的な意味で語られています。つまり信心は、今地上で生きているこの時だけでなく、死んで復活した後も含め永遠に益をもたらすのです。体の鍛錬はどうでしょうか。それは目に見える行いを鍛え、整えることを意味します。信心はすべての点に益ですが、体の鍛錬の益は多少です。信心の益における「すべての点」は時間的な意味ですから、体の鍛錬の「多少」もまた時間的な意味です。つまり体の鍛錬による益は、地上を生きているこのときだけに過ぎないのです。死後にまでは持ち越せません。永遠の価値を持たないのです。もちろん体の鍛錬が無益なわけではありません。ただ体の鍛錬は、信心を鍛えるなかで自然に伴うものです。体の鍛錬が第一目標にはなりえないのです。それにも関わらず体の鍛錬ばかりを強調し、自らの行動を整えることばかりを考えていたのが、禁欲主義や功績主義を教えた人々です。しかし最も大切なのは、信心において自分を鍛えることです。
では信心とはなんでしょうか。その内容が9節です。「この言葉」とは、1:15にある「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」を指しています。パウロは自らを、その罪人の中で最たる者だと言っています。信心の鍛錬とは、この言葉をそのまま受け入れるための鍛錬です。また、自分こそがキリスト・イエスに救われなければならない罪人の中で最たる者であることを受け入れるための鍛錬です。この言葉をそのまま受け入れることは、決して簡単ではありません。キリストは罪人を救うために世に来られた。そうは言っても、他の人々より頑張った人こそが救われるべきだ。自分はあの人に比べればそれほどひどい罪人ではない。こう主張したいと願う思いが、わたしたちの心の中にあるのです。この思いが表に出ることで、禁欲主義や功績主義が起こります。このような思い、このような主張に抗うために、わたしたちは信心において自らを鍛えるのです。そのために苦労し、奮闘するのです。それはわたしたちが、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置くからです。このお方は、神のためにいい子で頑張った人の救い主ではありません。罪深く劣っていると周囲から見放された人々にもまた、信じることによって神の救いは及びます。頑張った人々にではありません。頑張れないけれど、罪深いけれど、信じる人々です。このような救いを実現される生ける神に、わたしたちは希望を置いています。それはすなわち、自分の力、自分の頑張りに希望を置かないということです。キリストは、自分の力では頑張れない罪人を救うために世に来られたからです。このことをありのままに受け入れるために、それを人々に宣べ伝えるために、パウロもテモテも、労苦し奮闘するのです。わたしたちもまた、同じように労苦し奮闘するのです。
これは「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉を、そのまま受け入れるための戦いです。世の中は、この言葉を受け入れられないからです。しかしその戦いのなかで、神は救われる人々を起こしてくださいます。わたしたちが希望を置くのは生ける神だからです。神は今も生きて働かれ、御言葉に示されたご自身の計画を必ず成し遂げてくださるお方です。このお方は、今の世だけでなく、世を去った後も永遠に至るまで、すべてにおいて益を与えてくださいます。だからこそ自分の力にではなく、罪人を救ってくださる生ける神に、望みを置き続けようではありませんか。