2023年2月12日礼拝説教「賜物を軽んじることなく」

 

聖書箇所:テモテへの手紙一4章11~16節

賜物を軽んじることなく

 

 教会設立を前にしての主日礼拝です。教会が建てられていくということ。それはどこまでも神の御業です。その一方でこの神の御業には、そこで用いられた兄弟姉妹たちの血のにじむような労苦と奮闘の上になされたものです。このような教会の歩みの土台に、教師が教え、信徒がそれに聞き従う営みがあります。それは聖書の時代の初代教会でも変わりません。それゆえパウロは若手教師であるテモテに、「教えなさい、教えなさい」と繰り返し命じています。その教えとは聖書の朗読と勧めと教えです(13節)。教師の働きの土台には、どこまでも聖書の御言葉があります。だからこそ、テモテをはじめとする教師が聖書を土台として教えることが大切です。

 教師の働きは、教えることだけに留まりません。教えたことに従い、率先して生きることが大切です。そうでなければ、教えた言葉が説得力を持ちません。このことについてパウロはテモテに、年が若いということで、だれからも軽んじられてはならないと書いています(12節)。周囲の人々から若さを理由にして軽んじられるような生活をするなと命じています。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となれと、パウロはテモテを励ますのです。

 パウロがこのように書いた背景には、テモテの直面する疲れや不安、あるいは無力感があったものと思われます。自分には、聖書を教えることなどとてもできない。このような信仰的な挫折は、テモテだけでなく、ここにいる誰しもが経験することでしょう。それに対してパウロは、あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはならないと諭します(14節)。自分に自信を持て、あるいは自らの力に信頼せよ、ではありません。信頼すべきは、あなたの内にある恵みの賜物だとパウロは書きます。そしてテモテには、教師としての賜物が神から与えられている確かな印がありました。それが、14節後半の言葉です。預言とは、今でいうところの御言葉あるいは御言葉の説教に対応します。長老たちが手を置いて御言葉が語られる。すなわち按手です。本日の教会設立式においては、長老候補者と執事候補者に按手がなされます。それによって正式に長老と執事が任職されます。そこにおいて、神が恵みの賜物が確かに与えられたことが示されます。「賜物」という言葉そのものが、本来は分不相応な者に与えられた恵みを表しています。ですからたとえ自らに力がないことを自覚しようとも、与えられた賜物については力がないかのように軽んじてはなりません。わたしもまた教師としての按手を受けています。そしてわたし自身、自分がこの職にはふさわしくないと思うことは度々あります。それでも、按手を受けている以上「自分には教師の賜物がない」と言うことはできません。どれほど自らの至らなさや罪に打ちひしがれようとも、自らに与えられた恵みの賜物の力を信じて、歯を食いしばって務めをなすのです。教会の役員に召される兄弟姉妹も、私と共にこの歩みに加わっていただきたいのです。いや、すべての方々にも同じように歩んでいただきたいのです。按手を受けていなくとも、洗礼を受けているからです。それは聖霊が与えられていることの印です。聖霊なる神がわたしの内に住んでくださっている。それはこの上ない恵みの賜物です。それはキリストが、十字架にかかられてまでわたしたち一人一人にお与えくださったものです。自らの信仰に自信が持てないときにこそ、神が与えてくださった恵みの賜物に目を向けていただきたいのです。自分には賜物がないとあきらめるのではなく、それでも神が与えてくださった賜物を軽んじることなく、信じていただきたいのです。

 こうして恵みの賜物を与えられた者がなすべき歩み方についても、パウロはテモテに書き記しています(15節)。恵みの賜物において与えられた働きに努めること、そしてそこから離れず留まり続けることです。それによって、自らの進歩がすべての人に明らかとなります。自らの信仰的成長は、自分のなかで終わることはありません。すべての人に明らかとなっていきます。「進歩」という言葉は、フィリピ1:12で福音の「前進」という意味で用いられています。自らが神の福音に仕えるものとして前進して、福音の前進のために用いられていくのです。それは自らの救いだけでなく、恵みの賜物によってなされた自らの働きにあずかった人々をも救うことになります。テモテにとって、その働きとは健全な教えを人に教えることでした。そしてその教えに従って、自らも歩むことでした。ここにいるお一人お一人にも、それぞれに、御言葉に仕えるべく恵みの賜物が与えられています(ローマ12:6以下参照)。例外はありません。皆に与えられています。そして今日特に覚えたいのが、神はふさわしくない者にこの賜物を与えてくださっている点です。わたしにはとてもできない。わたしには全くそのような資格はない。自らを振り返るときに、誰しもそう感じるでしょう。しかしわたしたちがそのような者だからこそ、神はキリストの十字架をとおして恵みの賜物を与えてくださっています。自分自身ではなく、神が与えてくださった賜物の力を信じて、それぞれに与えられた働きに留まり続けようではありませんか。それによってわたしたちだけでなく、わたしたちをとおしてなされる神の働きにあずかる人々をも、神は救いに導いてくださいます。

 

 自らが関わった方が主を信じて救われていく。キリスト者としてこれほど嬉しいことはありません。その喜びがあふれる教会を、共に建てあげていこうではありませんか。そのために神は、ふさわしくないわたしたちに、なおも恵みの賜物を与えてくださっています。神が与えてくださった恵みの賜物の力に信頼して歩んでまいりましょう。