2023年2月26日礼拝説教「出会いへの導き」

聖書箇所:創世記29章1~14節a

出会いへの導き

 

 ヤコブは、神が与えると約束してくださったカナンの地から、母リベカの兄であるラバンのもとへ逃亡しているところです。このときのヤコブは無一文の逃亡者でした。そんな彼に唯一与えられていたのが28:13~15に記されている神の約束でした。この約束が実現し、後にヤコブはカナンの地に帰ることになります。しかも、妻や子供たち、多くの財産を携えて帰ることになります。その経緯が29~31章にかけて記されていきます。今日はその最初の部分にあたります。

28章において夢で神と出会ったヤコブは、伯父ラバンのところに身を寄せるため東方の人々の土地へ行きました。すると野原に井戸があり、そのそばに羊が三つの群れになって伏していました。井戸には水を求めて家畜も人も集まります。当時の出会いの場の一つであったと言えます。ところでヤコブが見たこの井戸は、口の上に大きな石が載せてありました。そしてこの井戸を利用する際には、まず羊の群れを全部そこに集めてから石を転がして羊の群れに水を飲ませ、また石をもとのところに戻しておくことになっていました(3節)。これがこの井戸を使ううえでの決まりでした。

 井戸を見つけたヤコブは、そこにいた人たちと話し始めました。ヤコブは、彼らがどこの人か尋ねます。すると彼らは、自分たちがハランの者であると答えます。それは彼の旅の目的地である伯父ラバンの住む土地でした。そこでヤコブは彼らにラバンを知っているか尋ねます。すると彼らは、知っていると答えます。そこでヤコブはラバンが元気かと尋ねると、元気ですとの回答が返ってきました。それだけでなく、もうすぐラバンの娘ラケルも羊の群れを連れてやって来るとの情報がもたらされました。それによってヤコブは、ラバンの親族との出会いのきっかけが与えられたのでした。

 このやり取りのあと、ラケルが登場するまえに一つの会話が記されています(7~8節)。ヤコブから羊飼いたちへの問いかけと、彼らの回答です。この会話をどう理解するかは、解説者によってもまちまちです。怠けている羊飼いたちへのヤコブの叱責だとする説もあれば、この井戸の決まりを知らないヤコブの無遠慮な問いだとする説もあります。いずれにしても羊飼いたちにとって、ヤコブの問いに対してよい感情は抱かなかったはずです。この会話から、遠く旅をしてきたヤコブと地元の人々との間に、ある緊張関係が存在することが分かります。

 このようなやり取りをしていますと、ラバンの娘ラケルが父の羊の群れを連れてやってきました。それを見たヤコブは井戸の石をどかし、伯父ラバンの羊に水を飲ませました。ラケルとの関係を築くためです。そのうえでラケルに口づけしてあいさつし、自分の身の上を打ち明けるのでした。ラケルは走っていって、このことを父に知らせました。すると父ラバンは走ってヤコブを迎えに行き、ヤコブを抱きしめて口づけしました。そしてヤコブを自分の家に案内しました。ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、ラバンは彼に言いました。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ」。創世記の最初でエバを与えられたアダムが「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っています(創世記2:23)。ここにある結婚関係に等しいほどの近しい肉親として、ラバンは喜びの内にヤコブを迎えたのでした。

 ここまで、ヤコブとラケル、そしてラバンが出会う場面を見てまいりました。この出会いが、後にヤコブの身に神の約束が実現していくための土台となっていきます。直接神は記されなくとも、ヤコブをカナンへ帰らせるという約束を実現へと向かわせる神の導きは確かにあるのです。約束の実現に必要なものが、無一文の逃亡者であるヤコブに一つ一つ与えられていきます。しかもラバンの側がヤコブを喜びの内に迎えるという思いがけない形で、この出会いは与えられました。

 一方で、万事がうまく運んだわけではありませんでした。ハランの土地の人々とヤコブとの間には、緊張関係がありました。この緊張関係が、後にラバンとヤコブとの確執を予感させます。たとえ神の導きの中にあっても、何もかもが順調に進むわけではありません。周辺社会との関係、ヤコブ自身の弱さや欠け、肉親からの裏切り。こういった様々な緊張関係が、この後ヤコブにはのしかかってまいります。それゆえにヤコブは悩み、長期間にわたる苦難に耐えなければならなくなります。しかしそのようななかにあっても、御自身の約束の実現に向け、神は確かな導きをお与えくださいます。そのために必要な出会いを、神はお与えくださったのです。

 

 わたしたちキリスト者も、またわたしたちの教会も、様々な緊張関係のなかに置かれています。わたしたちはしばしばそのことに悩みます。しかしそのなかにあっても、神は聖書に記されたご自身の約束の実現へと、確かに導かれます。この導きの中心にあるのは、どこまでも神の約束です。ヤコブにとってそれは、約束の土地カナンへと神が帰らせてくださる、という約束でした。この約束が、後の時代の神の民にとっての、神の御許への帰還の希望として理解されました。この約束が、時至って主イエスキリストの十字架において実現しました。神は主イエスキリストの十字架をとおして、神の民をご自身の許へと帰らせてくださるのです。これが聖書をとおしてわたしたち神の民に与えられた、神の約束です。この約束の実現のために、神はわたしたちを、そして教会を、そしてこれから起こされていく新たな神の民を、確かに導いてくださいます。神の約束の実現に向けた、神の確かな導き、そして神の確かな希望の内に、わたしたちは置かれています。ここに土台を置いて、理想的ではないこの社会のただ中を歩んでいこうではありませんか。