聖書箇所:テモテへの手紙一6章1~2節a
社会の関係と教会の交わり
本日の箇所では奴隷について取り上げられます。この時代の奴隷は、我々が想像する奴隷とは必ずしも同じではありません。能力のある奴隷は重宝されましたし、固定化された身分でもありませんでした。一定の条件を満たすことにより一般市民になることが可能でした。現代で言えば、労働者階級をイメージしていただいた方が当時の奴隷の実態に近いでしょう。その一方で、「軛の下にある」奴隷と記載がありますから、自ら望んで奴隷になるものではありませんでした。奴隷とは不遇な境遇を強いられた人々であり、不平等の中にあり、抜け出すべき状況でありました。奴隷制のない現代においても、当時の奴隷と同じような境遇に置かれた人々はたくさんいるのです。奴隷制を含め、社会的な不平等、強い者が弱い者を搾取する状況を、聖書は容認しません(旧約聖書の預言書などを参照)。それゆえに聖書に従う者ならば、社会的な不平等や搾取が改革されていくために行動しなければなりません。しかしながらそれが、不平等や搾取を生むような社会的な階級や秩序を即刻否定するべきとの誤解を生みました。宗教改革の時代にも、このような過激な理解がありました。そもそも宗教改革は、当時の世俗権力と協力したがゆえに成し遂げることができた側面があります。そのような宗教改革者の態度に対して、世俗権力と結びついた堕落だと批判する人々がいたのです。この人々は、世俗権力や社会的秩序を拒否して聖書に基づく理想的を実現しようとしました。
社会の中で生きておりますと、聖書の教えとは相いれない現実があります。それを前にして、その現状を完全に拒否する姿は一見すると信仰的かつ聖書的に見えます。それに対してパウロは、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべき」と教えます(1節)。パウロは、決して奴隷制を積極的に肯定しているわけではありません。その一方でパウロは、奴隷制廃止のために社会的な秩序を否定することを命じません。一方的な変革や拒否によってではなく、キリスト者には、キリスト者なりの改革のやり方があるのです。それが垣間見えるのが2節です。そこでパウロは、特に主人が信者である場合には、より熱心に、愛を持って主人に仕えよと命じます。そもそも奴隷制を含め、社会における不平等や搾取の根本にある問題は、人と人との関係における愛のなさです。奴隷制は、主人が奴隷を物のように扱うことが前提とされています。当然、奴隷は主人に対して良い感情を持ちません。そして自らを虐げる主人は、たとえ信者であっても愛の対象から外してしまいがちです。信者である主人たちに従わなくてよいと考えた奴隷たちの問題点がここにあります。
この愛のなさの問題は、奴隷制に限らずあらゆる人間関係に当てはまります。社会のあらゆる不条理な現実の根本には、この愛のなさがあります。それを変えるために、キリスト者としても声を上げることが必要な場面があります。けれども声を上げる者の愛が失われているならば、そのような主張は新たな不条理を生むだけです。今日の箇所でパウロが命じるのは、愛による改革です。もし奴隷たちがこの愛のまなざしによって主人に仕えるならば、愛された主人もまた奴隷を愛するようになるでしょう。すると奴隷と主人との間に、互いに愛し合う関係が結ばれることになります。もはや主人と奴隷という区別そのものが重要ではなくなり、奴隷制そのものが意味をなさなくなるでしょう。このような愛による改革をまずあなたたちから始めよと、パウロは奴隷たちに命じるのです。
この愛による改革を始めるキリスト者の根本的な動機は「神の御名とわたしたちの教えが冒瀆されないようにするため」です(1節後半)。愛による改革を始めるためにはまず、神を見つめることから始める必要があります。神の御名やこの方をお伝えする教えが人々から冒瀆されてほしくない。かえって、人々から讃えられてほしい。それはすなわち、わたしたちが神を愛する思いと言ってもよいでしょう。神への愛に導かれてはじめて、奴隷は信者である主人を心から愛することができるのです。もちろん主人たちに対して仕えることを拒否したい気持ちが奴隷たちにあるのは当然です。それでも神が讃えられるために自らの益を求めず、主人の益のために心から仕えること。それがキリスト者に勧められている愛による改革です。
すべての根本には、神への愛があります。しかしそもそもこのような神への愛は、キリストの十字架による神の愛を受けとめることによって芽生えるものです。キリストは自らを犠牲にすることによって、わたしたちの悪に善をもって報いてくださいました。この姿が、今日の箇所でパウロが奴隷たちに命じる姿と重なります。わたしたちがいただいた神の愛とは、自らの益を度外視にしてでも、相手の益を求める愛です。この愛をいただいたわたしたちが、神を愛することへと導かれるのです。その愛の中でわたしたちは、人々をも愛し仕える対象として見ることができるのです。
わたしたちが生きる世界は不条理にあふれています。教会の中ですら、兄弟姉妹との愛のない関係に苦しむこともあります。この現実を、愛することによって改革していこうではありませんか。わたしたちが神を愛することによって。その愛によってわたしたちを虐げる人々をなおも愛することによって。それによって、人と人との愛の関係が結ばれていくのです。この愛の源に、わたしたちの悪に善をもって報いてくださったキリストの十字架の愛があります。キリストの十字架に示された神の愛によって、わたしたちは世のあらゆる悪に勝利していくのです(ローマ12:21参照)。この愛による改革の最前線へと、今日ここから遣わされていこうではありませんか。