2023年4月2日受難週主日礼拝説教「神の子がお受けになった十字架」

 

聖書箇所:マルコによる福音書15章33~41節

神の子がお受けになった十字架

 

 マルコ福音書全体を貫くテーマの一つが「神の子」です。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始まります。そして本日の箇所で百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と告白しています。イエスが神の子である。これを示すことが、マルコ福音書の目的の一つです。「神の子」とわたしたちが聞いて思い浮かべるのは、人々に称賛される人であり、人々の歩みに大きな影響を及ぼす存在でありましょう。それは、今日の箇所で描かれている十字架の主イエスとはかけ離れています。それゆえにこそ、マルコ福音書が書かれたと言うこともできるでしょう。

 ところで聖書における神の子とは、ダビデの子孫として永遠に神の王国を治める王のことを指します(サムエル記下7:12~14a)。この王は、旧約時代より待ち望まれ続ける救い主でもあります。つまり聖書で言うところの神の子とは、民を治める王であり民の救い主です。このお方こそ、十字架上の主イエスである。このことが、マルコ福音書の主張です。

 このことを踏まえ、十字架上の神の子の姿がどう描かれているかを見ていきたいのです。昼の十二時になると全地は暗くなり、それが三時まで続きました。この様子は、民の罪に対する神の怒りを記したアモスの預言に基づいています(アモス8:9)。主イエスが十字架にかかられたときに、アモス書の書かれた出来事が起こったのです。ということは、アモス書に示された神の怒りを、民の代わりに十字架上の主イエスが一身に受けられたということです。なぜなら神の子は、民の救い主だからです。

 続いて三時になると、主イエスは十字架上で叫ばれます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。主イエスの十字架においては、その痛みや渇きが強調されることが多いです。けれども主イエスがお受けになった最も過酷な罰は、痛みや渇きの中にあって神に叫んでも、神から見捨てられたことです。ここでの主イエスの叫びは、詩編22編のダビデの詩の冒頭の御言葉です。主イエスは、ダビデ王の子である王(すなわち神の子)として、ダビデの苦難を身に受けられました。実際にはダビデ以上に徹底的な苦難を、彼は身に受けられました。それは、民が神に見捨てられないためです。ところで「見捨てる」とは、離れる、放っておくという意味です。この言葉を旧約聖書で探してみますと、否定形によって「主は見捨てない、離れない」という意味で繰り返し用いられています(創世記24:27、28:15、申命記4:31など)。その一方で、神の民は何度も神を見捨てます。本来ならば、神の民は神から見捨てられて当然です。それでも頑なに民を見捨てない。それが旧約に示された神のお姿です。民を決して見捨てないという神の御心を実現するために、主イエスご自身が十字架上で神に見捨てられたのです。それが神の御心に仕える神の子の役割だからです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という主イエスの叫び。その叫びこそ、このお方が神の子であり救い主である証拠なのです。そして十字架の主イエスが神の子であることが真実ならば、もはや神の民は決して神に見捨てられることはありません。それが、神殿の垂れ幕が裂け、神と民との隔てが取り去られたことに示されています。

 このように、マルコ福音書ではいくつもの事柄を挙げて、十字架の主イエスこそ神の子であると示しています。しかし主イエスが神の子と理解できない人々の姿も描かれています。そばに居合わせた人々は、「そら、エリヤを呼んでいる」と言っています。主イエスの「エロイ」と「エリヤ」と聞き間違えたのです。彼らは十字架の主イエスの言葉を、聞く気がなかったのです。また、主イエスに酸いぶどう酒を飲ませようとした人がいました。その際の発言の冒頭が「待て」です。これも「放っておく」という意味を持ち、「見捨てる」と重なる言葉です。彼らは十字架上の主イエスを見捨てています。この姿は、旧約時代に神を見捨て続けた神の民の姿と重なります。それは主イエスの十字架から一歩引き、傍観する態度にほかなりません。それはまさに、主イエスを救い主として受け入れる前のわたしたちの姿でもあります。

 それに対して、主イエスこそが神の子であると認めた人々もおりました。百人隊長や、大勢の婦人たちです。この人々は、主イエスの十字架を傍観するのではなく、自らのこととして捉えています。そのことをとおして、十字架の主イエスが神の子であることをわたしたちは知るのです。そして主イエスが神の子であると認めたとき、生き方が変わります。なぜなら神の子は、王だからです。そして主イエスを自らの王とし、彼に従う人々の行動によって、主イエスが神の子であることが世に示されます。すなわち神の子が十字架にかかられたことが明らかにされていくのです。このようにして示される事実は、神の民がもはや神から決して見捨てられることがないという希望でもあるのです。わたしたちは痛みや苦しみの中にあるとき、それ自体を神の罰であり自らの背きの結果と受けとめがちです。しかしわたしたち人間の神への背きがもたらすもっとも悲惨な結果は、痛みや苦しみのなかにあってもなお、神から見捨てられることです。この悲惨を、神の子であられる主イエスキリストが十字架上で受けてくださいました。それゆえわたしたちはもはや、神から見捨てられることは決してありません。このゆるぎない希望が、わたしたちのものとなりました。そのことを、わたしたちはこの後の聖餐式において確信します。そして主イエスキリストを神の子、そしてわたしの王として、わたしたちは新たに歩みだすのです。この歩みをとおして、「神はご自身の民を決して見捨てることがない」という確かな希望が、この地に示されていくのです。