聖書箇所:マルコによる福音書16章1~8節
恐れの先に
主イエスキリストの復活は、キリスト教信仰の土台であり中心です。その大いなる出来事が最初に知らされたのは、婦人たちでした。これは、男尊女卑が当たり前であった当時の社会常識から考えると驚くべきことです。ただ、今日登場する婦人たちは、ただ軽んじられていただけの人々ではありません。十字架にかかられた主イエスを直視した人々でもあります。それほどまでに彼女らは、強い思いを主イエスに対して持っていました。それは、今日の箇所での行動にも表れています。安息日が終わると、婦人たちはすぐに行動を始めます。主イエスが十字架にかかられたあと、安息日をはさみ、彼女らが行動できる最も早い時間が日曜日の日の出のときでした。この時間に、婦人たちはさっそく行動を開始しました。
彼女たちがしようとしたことは、葬りでした。主イエスが十字架上で息を引き取られたあと、十分に弔うことができなかったからです。一刻も早く、せめて主イエスを葬りたい気持ちが、日の出とともに彼女たちを墓に向かわせました。婦人たちは、香料を買って墓に向かいます。死後三日目で遺体の腐敗が始まっています。その遺体に香料を塗るのは、口で言うほど生易しいことではありません。それでも婦人たちは、行動せずにはいられませんでした。彼女らは決して強いられてそれをしたのではありません。しないではいられなかったのです。そこに彼女らの主イエスに対する思いの強さが表れています。しかしこの彼女らの熱心さも、死を前にしては全くの無力です。婦人たちが向かう先は、どこまでも墓です。入口の石をどかしてもらう当てすらありません。彼女らが熱心だからこそ、かえって死に対する無力さが浮き彫りになります。死んでしまった人を前にしては、それを覆すことも、わずかに状況を好転させることすらも、わたしたちには不可能です。
この絶望の状況が、4節から大きく転換します。婦人たちが目を上げると、石は既にわきへ転がしてありました。この石は婦人たちにとって、自分たちの力ではどうにもならないことの象徴です。その石が、もはや問題にならないところへ転がされています。婦人たちが墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えました。この服装は、彼が天使であることを示すものです。そして右手とは、救いが到来する方向と言われていました。ですから5節の描写で示されるのは、これから語られるのが天使によって告げられる救いの知らせだということです。その救いの内容が6節です。婦人たちが捜していた「ナザレのイエス」とは、通常は、主イエスが救い主であることを信じない人々が用いた呼び名です。このとき婦人たちが捜していたのもナザレのイエスでした。なぜなら婦人たちが捜していたのは、墓の中で眠るイエス、すなわち死に負けて人を救う力を持たない人間イエスだからです。いくら熱心に主イエスに仕えても、いくら主イエスに対して強い思いを持っていたとしても、このお方の復活から目を背けるならば何の希望もありません。しかしその婦人たちに、天使は主イエスが復活したことを告げたのです。これは死に対する勝利の宣言です。それゆえに、もはや婦人たちがいるのは死の支配する墓ではありません。単に主イエスの体をかつてお納めした場所にすぎないのです。
さて、主の復活が告げられた婦人たちに対し天使は命じます(7節)。ペトロの名前が特に挙げられているのは、彼が最も明確に十字架の主イエスを裏切ったからです。そのペトロをも除外することなく主イエスの復活を告げよ。そう天使は婦人たちに命じました。彼らに伝えるべき具体的な内容もまた、天使は7節後半で指示しています。これは、主イエスを追ってガリラヤに行けという指示以上の意味があります。「先に」とは「先立って」あるいは「先頭に立って」という意味です。死に勝たれた復活の主イエスが、先立って行かれます。それゆえ主イエスの後に続く者もまた、復活の恵みに与るのです。人間の力ではどうにもならない死に打ち勝つ道が、ここに示されています。それは先立つ主イエスの後についていく道です。その歩みへと、婦人たちも、弟子たちも、そしてわたしたちも招かれているのです。
この天使の言葉に対する婦人たちの反応はどうだったでしょうか。彼女らは5節ですでに、ひどく驚いています。天使の言葉を聞いたあと、婦人たちは墓を出て逃げ去りました。震え上がり、正気を失っていました。婦人たちにとって、復活のできごとはあまりに異質で常識外れの出来事でした。驚くべき出来事を前にして、恐れが勝ったのでした。あまりの恐ろしさに、誰にも何もいいませんでした。これが、主の復活を知らされた人間の、普通の反応だろうと思うのです。待ちゆく人々に、「主が復活されました」と言っても、いきなり「万歳!うれしい!」と喜ぶ人はいないでしょう。事実今日の箇所の登場人物は、誰も喜んでいません。なおマルコ福音書はこの後も続きが記されています。しかしもともとのマルコ福音書は、この8節で終わっていたと考えられています。この唐突な終わりのゆえに、読む者は問われるのです。この出来事を前にして、あなたはどうするのか、と。
わたしたちの前には二つの選択肢があります。一つは、復活を恐れ続け、その事実を否定し、死への無力を抱えたまま生きるという選択肢。もう一つは、死に勝利され、先立って行かれる主イエスのあとに従うという選択肢です。復活を前にして、恐れがあるのは当然です。しかしマルコ福音書において、恐れる人々に対し主イエスは繰り返し「恐れず信じよ」と語っておられます(5:36など)。主イエスのこの招きに応え、恐れを超えて、死に勝利されて復活された主イエスの後に従いたいのです。この希望の道へと、このイースター礼拝から踏み出していこうではありませんか。