聖書箇所:テモテへの手紙一6章11~16節
主が再び来られるときまで
キリスト者としての歩みは、大きな祝福が与えられる歩みです。一方で、神に仕えようとすればするほど様々な試練や誘惑に見舞われます。世との軋轢が大きくなるからです。そして困難が増え、また自らの罪にも悩むことになります。しかしそのなかでこそ、神の恵みが明らかにされていくのです。キリスト者のこの歩みは、エフェソ教会の監督(すなわち牧師)であったテモテも例外ではありません。信仰生活は誰にとっても戦いなのです。
この戦いを戦い抜くために、避けることと追い求めることの二つが命じられています。11節冒頭の「これらのこと」とは、直前に記される「何かを得ること」を目的とし不満の中で生きることです。そのような生き方を、キリスト者は避けなければなりません。続いて、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和の六つを追い求めることが命じられています。これらの「避けること」と「追い求めること」が、12節で「信仰の戦い」と言われています。避けようとすれば、そして追い求めようとすれば、それによって周囲との軋轢と摩擦が生じることが暗示されています。避けることに関して言えば、得ることを目的として生きようとする欲は、特別に問題を抱えた人だけのものではありません。テモテもまた、その欲から決して自由ではありません。だからこそ意識して逃げる必要があります。追い求めることに関して言えば、これはもともと「迫害する」と同じ言葉です。挙げられている六つのことを、あたかも迫害者が相手を追い回すかの如く、しつこく追い求めることが命じられています。なぜならここで挙げられている六つのこととは反対の現実が、キリスト者の周りにはあるからです。キリスト者は不正義に囲まれたなかで正義を、不信心が当たり前の環境で信心を、不信仰に生きることが自然な社会で信仰を、無関心な世において愛を、苦しいことなど馬鹿馬鹿しい風潮の中で忍耐を、戦争や暴力に満ちた険悪な空気のなかで柔和を追い求めなければなりません。だからこそキリスト者は、これらをしつこく追い求め、必死に戦って勝ち取らねばなりません。
避けることと追い求めること。この戦いを戦い抜いた先に、永遠の命が手に入ります。テモテが神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのは、この戦いを戦い抜いて永遠の命を得るためなのだと、パウロは12節後半でテモテに思い起こさせます。わたしたちも成人洗礼式あるいは信仰告白式において、教会員の前で信仰を表明しました。それもまた信仰の戦いを戦い抜いて永遠の命を得るためです。内に秘めるだけの信仰では、わたしたちは戦えません。困難があったときに、捨ててしまえるからです。だからこそ皆の前で信仰を表明し、支えないながら信仰の戦いを戦い抜くのです。
この信仰の戦いを戦い抜くためにパウロは改めてテモテに、おちどなく、非難されないように、この掟を守るよう強く命じています(14節)。ポンティオ・ピラトの面前で立派に信仰を表明されたキリストは、まさにこの命令を守る信仰者の手本です。しかしこの命令を守り切る自信がある方は、おそらくいないでしょう。これは何も自分自身の弱さのためだけではありません。わたしたちが置かれている現実を見ても、「わたしには戦えない」と思うのです。この手紙を受け取ったテモテもまた、同じであったでしょう。
しかしここで、視点を天に向ける必要があります。そして「わたしはこの戦いを戦い抜けるか」という問いを転換し「神は、この信仰の戦いを戦い抜く力をわたしにお与えになることはできないのか」を問いたいのです。神は万物に命をお与えになる方です。永遠の命もまた、自分の力で勝ち取るものではなく神から与えられるものです(13節)。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主であられます(15節)。唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできないほど、人も世界も超越しておられるお方です。そしてこの神に、誉れと永遠の支配があります(16節)。これほどのお方が、信仰の戦いを戦い抜く力をテモテに与えることは、そして同じく信仰の戦いを前にしているこのわたしには、与えることができないのでしょうか。答えは明らかにNoでありましょう。
さらに神は、定められた時にキリストを現してくださいます。それはキリストが王としてこの地上を完全にご支配されるときです。このときキリストの御心にかなわないこと、そのような世の現実は、すべて解決を見るのです。信仰の戦いを戦う者にとってそれは、完全なる勝利の瞬間です。信仰の戦いは、最後の結末が決まっている戦いなのです。勝つか負けるか分からない戦いを戦うのは苦しいものです。ましてや自らの姿を見ても、世と教会の現実を見ても、わたしたちの目に信仰の戦いは負け戦としか映りません。けれども神は、人の力をはるかに超越され、世界を治めておられます。この神は、信仰の戦いを戦い抜く力をわたしたちに与えることがおできになります。それだけでなく、実際に戦い抜かせてくださいます。なぜなら神は、十字架によってキリストをわたしたちにお与えくださったからです。それほどまでに、わたしたちに永遠の命を得てほしいと願ってくださっているからです。この愛の神が、定められたときにキリストを現してくださいます。こうして勝利を約束してくださっています。だから安心して、わたしたちは戦うことができるのです。
信仰の戦いを戦うわたしたちが何よりも信じ、より頼むべき事実がここにこそあります。「神が、このわたしに信仰の戦いを戦い抜かせてくださる」。この希望の事実を持って、それぞれの生活の場、信仰の戦いの戦場へと、歩みだしていこうではありませんか。