2023年4月30日礼拝説教「神の配慮と人の思い」

聖書箇所:創世記29章31~35節

神の配慮と人の思い

 

 ヤコブは、レアとラケルという二人の姉妹を妻としました。そのことが、この家族に火種と悩みをもたらすことになります。一人の人が、複数人の配偶者を満足させることなどできないからです。「ヤコブはレアよりもラケルを愛した」(30節)との記載は、しょせん不平等にしか愛を注ぐことのできない人間の限界が示されています。

 ここで主なる神は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれました。しかしラケルには子供ができませんでした。命の誕生に関することは、どこまでも神の領域に属することです。それはレアの胎が開かれたことだけでなく、ラケルに子供ができなかったことにも当てはまります。大切なことは、命を司っておられる神が、レアの胎を開かれた点です。彼女が疎んじられていたからです。美貌を持っていたラケルと比べ、レアはそれを持っていませんでした。自分ではどうにもならない事情により、レアは不当に虐げられていました。このような不平等は、人間社会においてそこら中にあります。そのなかで主なる神は常に、不平等の中で虐げられ、苦しんでいる者に目を留められるお方です。主なる神の慈しみを受けたレアは、ヤコブとの間に4人の息子たちをもうけました。息子たちを生んだ際の彼女の言葉をもとに、子供たちが名付けられていきます(32~35節)。これらの言葉から、レアの中にある二つの思いを読み取ることができます。一つは神が自らに目を留めてくださったことの喜びです。4人の息子のうち3人は、神に関連する名前が付けられています。神への感謝の思いが読み取れます。レアのもう一つの思いは、今度こそ夫がわたしを愛してくれるはずだ、という期待です。彼女のこの期待の背後にあるのは、愛の欠乏です。そして自分よりもラケルがヤコブに愛されていることのみじめさです。このような愛の欠乏とみじめさに、レアは傷つき悩んでいました。それゆえに彼女は、息子の誕生を主の御業として受けとめることができました。満足だけがあるなかでは、人が神の御業を見出すことは困難です。だからこそこのとき子供を産むのは、夫からの愛で満たされていたラケルではなく、愛の欠乏に悩むレアでなければなりませんでした。それによって命の源が神にあることが、そして神が虐げられた者に目を留めてくださる方であることが、示されるのです。

 神が命の源であり、虐げられた者に目を留めてくださる方である。この事実は、後のイスラエルの民にとって何よりの希望でした。なぜなら彼ら自身が、バビロン捕囚をはじめとして繰り返し虐げられ、命が何度も脅かされたからです。このようなイスラエルの民の事情は、日本においてキリスト者として生きる我々にも共通している面があります。我々もまたマイノリティーであり、異教社会のなかで振り回されています。そのような者にこそ、神は目を留めてくださいます。ただしこのことは、単純に神の親切としてのみで受け取られるべきではありません。虐げられている者に神が目を留めてくださるのは、その者こそが神の御業を受けとめることができるからです。

 ところで神がレアに目を留めてくださったことにより、彼女が不当に虐げられているだけの状況ではなくなりました。持たざる者であったレアが、息子を持つ者となりました。しかしレアの心は、純粋に神の御業を喜ぶだけではなかったようです。息子たちを生んだ際に繰り返し「わたし、わたし」と語るレアの言葉の裏には、ラケルへの対抗意識が見え隠れします。彼女はなお、ラケルとの競争の中に留まり続けています。今度はラケルが持たざる者となり、レアが持つ者となりました。そしてレアは、子を産まなくなりました。ここにも神の御意思を見るべきでしょう。ここで神がレアの胎を閉ざされたのです。なぜなら立場の逆転により、神が特別にレアに目をかけてくださる状況が終わったからです。

 レアは神の御業を喜びつつも、自らが満たされることを、そして不当に虐げられることのない強さを求めました。往々にしてわたしたちもまた、神から与えられた恵みを用いて自らの満足や強さを求めるのだと思うのです。しかし改めて覚えたいのです。神が目を留められるのは、欠乏した者であり、虐げられている弱い者です。レアが満たされ、ラケルと比べて強くなるということは、神が目を留めてくださる立場から出ることを意味します。こうして彼女は、しばらく子供を産まなくなったのです。神に目を留めていただける立場を脱してでも、満たされることや強くなることが、果たして人の幸いなのでしょうか。聖書はそのようには語りません。わたしたち人間の本当の幸いは、神に目を留めていただけることそのものにあります。思えば、主イエスキリストの地上の歩みからも、このことを見ることができます。主イエスは、神の御子、真の王として世に来られました。しかしこの方の歩みは弱さの中にあり、悩み多きものでした。その歩みの先に、不当に虐げられた裁判があり、十字架の苦しみと死がありました。このような主イエスキリストの歩みは、神に目を留められ、神と共に生きる歩みでした。神と共に生きる主イエスキリストの歩みを通して、神の救いの御業が示されました。この方の歩みにこそ、本当の幸いへの道があるのです。

 

 満たされて悩みがなくなることや強くなることの先に、わたしたちの本当の幸いはありません。どれほどそれらを求めようとも、悩みは尽きないからです。教会にも多くの困難があり悩みがあります。それでよいのです。何の悩みも課題もない教会は、もはや教会ではありません。キリストも悩まれたのですから、わたしたちも教会も悩んでよいのです。そのような者に、神は目を留めてくださり、御業をなしてくださいます。ここにこそ、わたしたちが喜ぶべき本当の幸いがあるのです。