聖書箇所:テモテへの手紙一6章17~19節
望みを置くべきところ
この箇所では、この世で富んでいる人々への警告が記されています。彼らは、パウロの教えに反対している人々ではありません。決して、富んでいることそのものが悪なのでも罪なのでもありません。ただ彼らには、特別な誘惑があるのです。一つは高慢になること、もう一つは不確かな富に望みを置くことです。望みを置くとは、それに頼るという意味です。命綱のイメージです。これさえあれば安心だと、頼ることができるものです。富んでいる人々は、その富を命綱のように頼って生きてしまう誘惑があるのです。ここに集う皆さんの大半は、自らが裕福だとは思っていないでしょう。しかしこれら二つの誘惑は、わたしたちと無関係ではありません。財産に限らず、誰しも人より自分が富んでいたり優れたりしている点があるからです。誰もが、今日の御言葉を自らのこととして受け取る必要があります。
そのうえで、押さえておくべき言葉が「この世」と「未来」です。これら二つの言葉は、新改訳聖書では「今の世」と「来るべき世」と訳されています。今日の箇所は、今の世と来るべき世との対比で語られています。「来るべき世」とは、主イエスキリストが再び来られたあとの完成された世界です。この世界には特徴が二つあります。神の御心が完全に実現した世界であること、そして永遠に続くということです。それらと対比して、「この世」が挙げられています。ですから「この世」とは、神の御心に反する力がなお影響力を持つ世界であり、また永続せずにある時点で終わる世界です。このことが分かりますと、この世の富がなぜ不確かかが分かります。永続しないからです。今の世が終われば、それらは無意味です。それでなくとも、老いて死ねば富はすべて自らの手を離れていきます。ルカ12章の愚かな金持ちのたとえが、そのよい例です。富は命綱にはなりえません。それでもその富をあたかも命綱であるかのように求め、自分の力で得なければ生きていけない。それがこの世の姿です。結局のところ、自分の力で得た富で自分自身を満たさなければ安心できない。それが不確かな富に望みを置く生き方です。いつかなくなる物のために汗水流して労苦するのは、空しいですよね。不確かな富に望みを置いて生きる危険性が、ここにあるのです。
このような生き方ではなく、キリスト者としてなすべき生き方があります。それは御心を行われる神に望みを置く生き方です。これが、来るべき世を見据えた生き方です。来るべき世で実現する「神の御心」とは、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださることです(17節後半)。神は来るべき世においてだけでなく、今の世においてもわたしたちに対してこの御心をお持ちでいてくださいます。わたしたちが神を楽しむために必要なものを、神は豊かに与えてくださいます。それは心の平安だけではありません。着るものも、食べ物も、神を楽しむために必要です。それらでわたしたちを満たすことを、御心としてくださっています。この神の御心に望みを置き、それを命綱として生きる。これが来るべき世の生き方です。ここにも今の世と来るべき世との対比があります。今の世とは、自分の力で得たもので自分自身を満たさなければならない世界です。それに対して来るべき世とは、神に豊かに満たされ、それを楽しむ世界です。あなたはどちらの世界の生き方がいいでしょうか。答えは言うまでもないでしょう。
では神に望みを置く生き方とは、具体的にはどのようなものでしょうか。それが18節と19節に記されています。富ではなく神に望みを置いて生きることで、自然と富を喜んで分け与えてシェアする生き方になります。なぜなら、わたしたちを楽しませるのが神の御心だからです。神が満たそうとしてくださるのは、わたしと隣人です。これが神の御心です。この御心が実現することに、来るべき世の生き方をする者の望みがあります。だからこそこの御心の実現のために、富んでいる者は自らの富を分け与えるのです。すると富んでいる人の周りの人々もまた神の恵みに満たされ、それを楽しみます。そこに神の御心が実現するのです。ですから、善を行い、良い行いに富むとは、いわゆる善行やボランティアではありません。単純に神の御心の実現のために行動した結果に過ぎません。その行動によって、周囲の人々が神の恵みに満たされたなら、キリスト者として嬉しくなるのではないでしょうか。これがわたしたちキリスト者の喜びです。ここにも、今の世と来るべき世の対比ができます。今の世とは、自分が満たされることを何より喜ぶ世界です。対して来るべき世は、兄弟姉妹が神の恵みに満たされることを自らの喜びとする世界です。その究極の姿がキリストの十字架です。キリストは、自らが空っぽになってまでも、わたしたちを満たすために十字架にかかられました。それほどまでに、わたしたちが満たされることをご自身の喜びとしてくださったのです。神がわたしたちを満たしてくださる。これは、決して精神的で漠然としたものではありません。兄弟姉妹が互いに満たし合うことによって、具体的な形で神の満たしは実現します。その御心の実現の先にあるのが、永遠に続く、来るべき世の姿なのです。
この神の御心が、この世において実現する場所。それが教会です。パウロが19節で「基礎」というとき、それは教会が意図されています。教会こそが、周りの人々が神の恵みに満たされることを喜びとする場です。そしてこのような神の御心に生きる教会は、この世だけでなく来るべき世においても永遠に続くのです。永遠に続く価値を、教会は持つのです。この堅固な基礎に、わたしたちは結ばれています。わたしたちを満たし楽しませるという神の御心に自らが用いられることにおいて、自らの人生は永遠の価値を持つのです。ここにわたしたちの望みがあり、喜びがあります。