聖書箇所:ヨエル書3章1~5節
すべての人にわが霊を
本日はペンテコステ記念礼拝です。五旬祭の日に、弟子たちに聖霊が降りました。そのことを記念するときです(使徒2章)。聖霊を受けた弟子たちが各地で宣教した結果、教会が建てあげられていきました。それゆえにペンテコステは、教会の誕生日とも言われます。何事も原点を振り返ることは大切です。その意味でも、ペンテコステをとおして教会の原点を振り返ってまいりたいのです。ところでペンテコステにおける聖霊降臨を、ペトロはヨエル書3章の預言の成就と語っています(使徒2:16~21)。教会の原点がペンテコステで、ペンテコステの原点がヨエル書3章の預言であるわけです。ですからこのヨエル書の預言から、教会の原点がどこにあるかを学びましょう。
今日まず着目したいのが、冒頭の「その後」という言葉です。聖霊降臨に先立つ出来事が、1~2章に記されています。そこには主として3つのことが記されています。一つ目は、神が送られた災害です(1:2~2:11)。具体的には、いなごと外国の大軍による侵略です。二つ目は、主の慈しみとしての招きとイスラエルの民の悔い改めです(2:12~17)。そして三つめは、神による災害からの回復です(2:18~27)。その後に、すべての者に聖霊を注ぐと、神は約束されています。ヨエル書のこの流れは、使徒2章の聖霊降臨とはずいぶん違う印象を受けます。使徒言行録での聖霊降臨が起こる前に記されているのは、弟子たちが切に祈る姿です。使徒たちのように主イエスの近くで仕えた立派な人々が、信仰に満たされて祈る中で聖霊が降る。それが使徒言行録の聖霊降臨から受けるイメージです。一方、ヨエル書での聖霊降臨の状況は異なります。ヨエル書の聖霊降臨に先立つ出来事は、災害です。この災害がもたらしたのは、それまで行われてきた礼拝の破壊です。主がこの災害を送られたと記されています。主御自身がそれまでの礼拝を拒否されたのです。なぜなら外見は信仰的に見えながら、中身が伴っていなかったからです。主が送られた災害によってイスラエルの民は、激しい欠乏のなかに置かれました。その中で彼らは主に立ち返り、主に憐れみを求めました。主はその姿をご覧になり、神の民イスラエルを回復されます。そのことの後、わたしはすべての人に我が霊を注ぐのだと約束してくださっているのです。ですからヨエル書においては、信仰に満たされている綺麗で理想的な人々に聖霊が注がれるのではないのです。聖霊が注がれたのは、激しい欠乏のなかで主を求めざるをえない人々です。そのような人々の集まりこそが、教会なのです。そしてそのような欠乏のなかで主を求める人々に、わたしは聖霊を注ぐと主は約束してくださっています。
さて3:1~2で主は、聖霊を「すべての人」に注ぐと言われています。「すべての人」が意味するところはなんでしょうか。具体的に挙げられています。息子や娘、老人、若者、奴隷となっている男女です。つまり性別も、年齢も、身分も、生まれも関係ないのです。神の霊を注がれた人々が預言し、夢を見、幻を見ます。これらはいずれも、旧約時代において神が人々に御心を伝えるのに用いられた手段です。この当時、そのようにして御心が与えられたのは、神の民イスラエルのなかでも限られた人々のみでした。しかし主が聖霊を注がれるとき、もはやそのような時代は終わります。神の霊を注がれたすべての人が神の御心を受け、それを人々に語る者とされます。牧師だけでなくここにいる皆さんが、神とこの世の人びととの橋渡し役として召されるのです。この働きに召された者たちの集まりが、教会なのです。
こうして主に霊を注がれたすべての者が神の言葉を語ることへと召されます。このことが、世の中に対してのしるしとなります。血と火と煙の柱というしるし。太陽は闇に、月は血に変わるというしるし。これらは今の世が終わり、神の御心による新しい世が到来するしるしです。このしるしは、今の世で満たされている人々にとっては都合の悪い知らせです。一方で、今の世に苦しみや痛みを覚える人々にとっては希望となります。この希望を抱きながら、世の悲惨と欠乏のなかで主の御名を呼ぶものは皆、救われます。この救いは、主の裁きを逃れ、主に残されることによって実現します。これが主イエス・キリストの十字架の贖いへとつながっていくことになります。この十字架の救いは、激しい欠乏のなかで、主の御名を呼び求めることによって与えられるのです。つまり教会とは、欠乏している者たちの集まりです。そしてその欠乏のなかで、神を求める者たちの集まりです。それは洗礼を受けた後も変わりません。わたしたちは神の御前に何も持たない者であり、ただ神に求めるほか希望がない者だからです。もう何も求める必要もないほど満たされた者たちの集まりでは、決してありません。
この世においては、すべてが満たされた立派で完璧な人が重んじられるでしょう。しかし教会は、そうであってはなりません。信仰面においてもそうです。もし信仰的に満たされ立派だと評価されている人々が重んじられるならば、そこに聖霊の働きはありません。自分も周りの人びとも神の恵みに満たされて、もはや何も求める必要がないと思い込むならば、そこに聖霊の注ぎはないのです。この世において、罪の現実はなくならないからです。教会はどこまでも、この世の生き方において欠乏した者の集まりです。その面で、教会は不器用な者の集まりです。だからこそわたしたちは、主の御名を呼ぶのです。そのような者にこそ、神は聖霊を豊かに注いでくださるのです。欠乏のなかで苦しみながら生きるものを、神の愛の御心を世に示す者として神は召してくださるのです。そのような人々が集められるのが、わたしたちが今結ばれている教会なのです。