聖書箇所:テモテへの手紙二2章1~7節
神のための労苦と報酬
先週は獄中のパウロが、オネシフォロによって支えられたことが記されました。今日の箇所においてパウロは、テモテに対しても共に苦しみを忍んでほしいと願っています。それに伴っていくつかのことが命じられています。 まずはキリスト・イエスの恵みによって強くなることです。テモテの前には反対者たちがいました。そのような人々を前にして、ある面での強さも必要でした。ここで重要なのが、キリスト・キリストの恵みによって強くなることです。「キリスト・イエスの恵み」の反対は「自分の力」です。わたしたちが強くある源は、自分の力や行いではなく、どこまでもキリスト・イエスの恵みであるべきです。次にパウロがテモテに命じることは、テモテが多くの証人の面前でパウロから聞いたことを、忠実な人たちにゆだねることです(2節)。使徒パウロが伝えた正しい教えと、そうでない教えが教会の中に混在していました。そのなかで教会は、それらの教えをどう判断していくのでしょうか。一つの基準が、世代を超えて受け継がれる価値をもつ教えか否かです。本当に価値ある教えは、世代を超えて受け継がれていきます。本物の価値をもつ教えは、一時的な人気で終わることはありません。パウロからテモテへ受け継がれた教えが、今度はテモテから忠実な人たちに受け継がれていく。この繰り返しによって、パウロの伝えたキリストの教えにこそ本物の価値がある正しい教えであることが示されていくのです。これらの働きを、これまではパウロが苦しみながら担ってきました。そして今度は自らが忍んできた苦しみを、テモテにも担うようにとパウロは命じます(3節)。パウロがこれまでキリスト・イエスの立派な兵士として受けてきたその苦しみ、苦難を、テモテもまた共にしてほしいと願ったのです。
では苦しみを共にするとは、具体的にどのように生きることなのでしょうか。それが4節から6節にかけて3つのたとえで示されています。これらのいずれもが、労苦に対して報酬があることを示しています。神のために苦しむことをとおして、求めるべき報酬があるのです。このことを踏まえて、一つずつたとえを見ていきましょう。
一つ目のたとえは兵役に服する者です(4節)。兵役に服する者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。「生計を立てるための仕事」は直訳すると「生活の活動」です。仕事に限らず、自らの生活を営み支えるためのあらゆる活動が含まれます。また「気に入ろうとする」は「喜ばせようとする」と訳す方が正確です(新改訳、口語訳、教会共同訳聖書などを参照)。テモテを兵役に服する者に重ねるならば、彼を召集した者とはキリストです。このたとえにおいてポイントになるのは、「煩わされることなく」という言葉です。よくよく考えれば、生活の活動は兵役に服する者でも行います。しかし兵士は、生活を支えるためにあれこれと煩わされることはありません。自分の生活のことではなく、ただ自分を召集した者の喜びのために苦しみを忍ぶ。それが兵士の役割です。このたとえに示されているのは、苦しみを忍ぶ目的です。キリスト・イエスの兵士は、自分の生活のためではなく、自分を召集した方の喜びのために苦しむのです。
二つ目のたとえを見てみましょう(5節)。競技に参加する者にとって大切なことは、規則に従うことです。そうでなければ、栄冠という報酬を受け取ることができません。キリストの兵士が苦しみを忍ぶ際にもルールがあります。それは神の御心としての律法であり、神の御言葉としての聖書でありましょう。これらを正しく理解し、それに従って苦しみを忍ぶことが大切です。こうして正しく労苦する者こそが最初に収穫の分け前に与るべきだと、6節の三つ目のたとえで示されています。
ここまで三つのたとえを見てきました。ではキリスト・イエスの兵士が苦しみを忍ぶことによって得られる報酬とはなんでしょうか。パウロが意図する報酬は、次回見ることになる11~12節に示されています。すなわち、キリストと共に生き、キリストと共に支配することです。これらは主に、キリストが再臨されたときに与えられる終末的な報酬です。しかしこの報酬は、今を生きるわたしたちとまったく関係ないものではありません。キリスト共に生き、キリストと共に支配する。その中心にあるのは、キリストの思いを自らの思いとすることです。誤解を恐れずに言うならば、キリストが喜んでくださるとわたしも嬉しい、という思いのなかで生きることです。わたしが忍んだ苦しみによってキリストが喜んでくださる。これが、キリスト・イエスの兵士として苦しみを忍ぶ者に与えられる何よりの報酬です。この報酬は、決して牧師や聖職者だけの特権でありません。ここにいらっしゃる誰もがこの報酬を受けることへと召されています。
このように苦しみを忍んで主の喜びを報酬として受け取るというこの関係は、自分とキリストとの関係だけに留まるものではありません。誰かが主の喜びのために苦しむことができるよう配慮することもできます。それによってその人が主の喜びの報酬に与るならば、それをも自らの報酬として喜ぶことができます。パウロがテモテに共に苦しみを忍んでほしいと願ったのも、この視点があります。テモテにも主の喜びの報酬を得てほしい。その思いの中で、パウロはこの手紙を書いたはずです。わたしたちもまたこのまなざしで、兄弟姉妹と接してまいりたいのです。自分が主のために苦しみを忍ぶだけでなく、あらゆる兄弟姉妹が共に苦しみを忍ぶことができるように配慮する交わりでありたいのです。こうしてわたしたちは、キリストの喜びという何よりの報酬に共に与り、共に喜ぶのです。それがここに集められたキリストを信じるわたしたちの交わりであり、教会の姿なのです。