聖書箇所:テモテへの手紙二2章14~21節
人の器を決めるもの
人はしばしば器にたとえられます。度量が広い人、些細なことに動じない人を「器が大きい人」といいます。その反対の人を「器の小さい人」と言うこともあります。このたとえにおいて比較されているのは、器の大きさです。今日の箇所でも、人が器に例えられています。ここで比較されているのは器の質です。主人である神の御前にわたしたちが問われるのは、器の大きさ(どれだけ働いたか)ではなく、質(どのような者として働いたか)です。では神の御前において、何が器の質を決めるのでしょうか。それを、今日の箇所から教えられてまいりたいのです。
14節において二つのことが命じられています。これらのことを人々に思い起こさせよ。言葉をあげつらわないようにせよ。少し前の8節では、テモテに「思い起こしなさい」と命じられています。この内容が14節の「これらのこと」につながっています。8節で言われたことの中心が、キリストの復活です。それを、人々にも思い起こさせよとパウロは命じています。そのうえで、言葉をあげつらわないようにと人々に厳かに命じるようパウロは指示しています。言葉をあげつらうとは、論争することを意味する言葉です。教会の中で起こる論争と言えば、神の言葉である聖書理解に関する論争です。論争そのものが悪いわけではありません。けれども御言葉について論争するならば、どんなことでも有益なのではありません。例えば一テモテ1:4では、系図に心を奪われている人々が取り上げられています。旧約聖書の系図について、聖書の意図から逸脱して細かな意味を読み込んでいた人々がいたのです。現代で言うならば、黙示録でそのような読み方が起こりやすいでしょう。そのような聖書の読み方により、聖書をとおして神がわたしたちに伝えようとしている意図からかえって離れてしまうことが起こるのです。それゆえに聖書の御言葉に向き合うときには、神が聖書をとおして伝えようとしている意図に沿って読むことが大切です。このこともあって、15節でパウロは「真理の言葉を正しく伝える者となるよう努めなさい」と記しています。
では神が聖書をとおして伝えようとしている意図とはなんでしょうか。その中心が、キリストの復活の希望です。ここに聖書の中心があり、福音の中心があります。しかし聖書について論争する人々の中には、真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと主張する人々がいました。その代表者がヒメナイとフィレトでした。彼らの主張が意味するのは、体の復活の否定です。体の復活がないならば、キリストの復活も否定されます。彼らは聖書を引用しながら、このことを主張して論争しました。神がキリストの復活の希望を伝えるために与えてくださった聖書を用いて、あろうことかキリストの復活を否定しようとしたのです。いつの時代も、体の復活を信じるのは簡単ではありません。だからこそヒメナイとフィレトをはじめとする一部の人々が、聖書を用いて信じやすい教えをひねりだしたのです。そのような教えは信じやすいだけに、はれ物のように広がります。しかしキリストの復活を否定する教えは、聖書から主張されたものであっても何の役にも立ちません。それどこか、聞く者を破滅に導くのです。なぜなら復活がないならば、我々罪人の行きつく先は破滅しかないからです。キリストの復活を否定するならば、もはやそれは福音ではありません(一コリント15:12~19参照)。
このように、復活を否定しようとなされる聖書論争は無意味なだけでなく、有害です。しかしそのような論争によって、神が据えられた堅固な基礎が揺らぐことはありません(19節)。神が据えられた堅固な基礎とは、聖書にある神の言葉であり、そこに示されたキリストの復活の希望です。そして堅固な基礎である御言葉には、神がご自身の者たちを知ってくださっているという希望と、この神の名を呼ぶ者は不義から離れよとの命令が記されています。希望をもって、このような不義で無意味な論争から離れることも必要なのです。自らの理解とは違う聖書理解に立つ方を前にすると、わたしたちは一つ一つのことに反論し、相手を徹底的に説き伏せなければならないような思いに駆られます。もちろん聖書に基づいて反論することは大切です。けれども、相手が説き伏せられるまで無意味な議論を続けるのは好ましくありません。神にゆだねて論争から離れることも必要です。
このような内容に続いて、器のたとえが記されます。金や銀の器と、木や土の器。両者の違いは、聖書の伝えるキリストの復活の希望に立つか否かです。復活の希望に立つ者は、金や銀の器として貴いことに用いられます。そうでないものは、木や土の器として普通のことに用いられます。木や土の器は、それ自体価値が低いものです。一時的に用いられることがあっても、それが代々受け継がれて使い続けられることはありません。ここに金や銀の器と、木や土の器の違いがあります。木や土の器の働きには、永続性がないのです。復活の希望に立たない以上、死を超えられないからです。それに対して金や銀の器は、価値が高いですから家宝として世代を超えて受け継がれます。その過程でより役に立つものとして整えられ、主人に大いに用いられ続けます。復活の希望に立つがゆえに、その働きにも永続性があるのです。キリストの復活に希望を置くわたしたちに、神は大変な価値を見出してくださっています。そのようなわたしたちがなすべきことは、反対者からの論争にどこまでも対抗して、木や土の器を自らの力で駆逐することではありません。復活を否定しようとするあらゆるものから、自らを守ることです。このようにして聖書をとおして示されたキリストの復活に望みを置くわたしたちを、主人である神が家宝として大切に扱ってくださいます。そしてあらゆる善い業のために備えてくださるのです。