聖書箇所:テモテへの手紙二3章1~9節
明らかになる無知
この手紙の受け取り手であるテモテは、主の復活を否定しようと議論に終始する反対者たちと対峙していました。その人々の救いをもあきらめない。それが主の僕の生き方です。しかしこのことは、すべての人が救われる万人救済を意味しません。終わりの時に至るまで、悔い改めることのない人々がいるのもまた事実です。その現実にも、目を向ける必要があります。そしてこの現実のゆえに、終わりの時には困難があることを悟る必要があります。これは、この手紙の著者である使徒パウロが言い出したことではありません。旧約時代から新約時代に至るまで一貫して、終わりの日の前の困難は教えられ、信じられていました。今日のわたしたちもまた、終わりの日の前には困難があることを思い起こしたいのです。
この困難な時期には、人々が神から離れていきます(2節以降)。2節の冒頭に「人々」とあります。これは決して「人間全員が例外なく」ということを意味しません。しかしながら少なくない人々が、終わりのときに神から離れてしまうことを示しています。また5節の終わりでパウロは、「こうゆう人々を避けなさい」とテモテに命じます。この命令は現在形です。終わりの日の困難は、決して今とは関係ない遠い未来の話ではありません。テモテは今まさに、困難な時期の真っただ中にいます。しかもこの命令は、避けるべき人々が教会の外ではなく中にいるということを暗示しています。つまり2節以降で具体的に挙げられている人々の姿は、エフェソ教会のなかにある具体的な問題を踏まえて記されているのです。
このような人々の具体的な行動が、2~4節において列挙されていきます。これらは、「何を愛するか」という側面から理解できます。自分自身を愛し、金銭を愛するようになる。そして神よりも快楽を愛するようになる。本来であれば人間は、神を愛すべき存在です。キリスト者ならなおさらです。その愛の対象が、自分自身や金銭や快楽に置き換わってしまう。つまり、自分自身や金銭や快楽を自らの神として生きている。これが神から離れてしまった人々の姿です。自らが最優先だからこそ、ほらをふき、高慢になり、自分に不利益を命じる神をあざけり、両親に従わないのです。なお両親に従うとは、困難な状況に陥った親を助けることを意味します。そのような不利益を拒否する人々が、エフェソ教会のキリスト者の中にいたのです。彼らは恩を知らず、神をあざけり、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度なく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がります。これらのこともまた、金銭を愛し、快楽を愛し、自分自身がいい思いをすることを最優先した結果としての行動として見ることができます。
このような人々の事例が6~7節に挙げられます。これらはエフェソ教会において実際に起こったことと考えられます。教会活動において他の家に入るのは、主に牧会訪問のときです。それをするのは、主に牧師や役員といった指導者たちです。教会内で知識や立場を持つ指導者たちが、それらを持たない女性たちをたぶらかし、罪に陥れている。エフェソ教会の現状は深刻です。まがいなりにも教会の指導者たちですから、彼らはよく学ぶ人々だったでしょう。けれども自分を満たすことを最優先に生きる人々は、決してキリストという真理を認識することには達することはありません。
神から離れた指導者の事例として、ヤンネとヤンブレが8節から取り上げられます。彼らはエジプトの奴隷となったイスラエルの民を解放するために遣わされたモーセの邪魔をした人々です(出エジプト7章以下)。ファラオの前でモーセが様々な奇跡を行った際、エジプトの魔術師たちも同じ奇跡を行いました。この魔術師たちが、ヤンネとヤンブレです。聖書には記されていませんけれども、伝説として彼らの名前が伝えられていました。彼らはモーセと同じことをしました。しかし目的は全く逆でした。イスラエルの民が解放されず、奴隷のままにしておくことが彼らの目的でした。なぜなら彼らをこれからも搾取し続け、それによって自分自身を、金銭を、快楽を、満たすためでした。彼らは一定期間イスラエルの民を奴隷としたままにしておくことができました。しかし最終的には、神に逆らう彼らの無知、彼らの悲惨、彼らの愚かさが、神の御前に、そしてすべての人々の前にあらわにされたのでした。同じことが、エフェソ教会で信徒たちを食い物にしていた指導者たちにも起こるのだとパウロは書いています。彼らの行動は、一見すると神に仕える健全な指導者たちと変わりません。しかしその行動に隠された無知、悲惨、愚かさが、最後にはすべての人々の前にあらわになるのです。
終わりの時の困難。それは人々が神から離れていくことによってもたらされる困難です。しかも立派にみられている人々こそが、容易に堕落するのです。これが主イエスキリストの救いをいただきながらも、なお罪にとどまる我々の現実です。終わりの日に明らかになる愚かさ。それは我々人間の愚かさに他なりません。立派に見える人、信心深く見える人、信仰的に見える人。そのような人々の愚かさが、終わりの日に明らかになります。それゆえにわたしたちは、終わりの日にも揺らぐことのない神に信頼する他ありません。しかし教会ではしばしば、御言葉を度外視してあたかも牧師や立派な信仰者という人間が重要かのような勘違いが起こるのです。しかし教会は、牧師や役員や立派な信徒という人に従うのではありません。神の御言葉に従うのです。当たり前のことなのですが、このことに徹底的に寄って立つことが、終わりの時の困難から教会を守るのです。このことを改めて今日、覚えてまいりましょう。徹底的に聖書の御言葉に従う教会を、共に建てあげてまいろうではありませんか。