2023年9月17日礼拝説教「主の祝福は誰のもとへ」

聖書箇所:創世記30章37~43節

主の祝福は誰のもとへ

 

 カナンに住んでいたヤコブは、兄のエサウから逃げて伯父のラバンのもとに身を寄せていました。そのヤコブに対して神は、カナンの地に帰らせるという約束をしてくださいました。この約束がいよいよ実現へと向かう場面です。このヤコブの帰り道を妨げたのがラバンでした。なぜなら彼は、ヤコブをとおして多くの家畜、すなわち財産を得ていたからです。財産は、主の祝福が与えられたことの一つの結果です。ラバンから見れば、ヤコブをとおして神の祝福が与えられていました。それゆえに彼は、ヤコブが帰ることなく今後も自分のところで働き続けるよう交渉します。

 ラバンのもとで働き続けるための報酬として、ヤコブは色付きの家畜を要求しました(32節)。ヤコブは決して法外な報酬を要求したわけではありません。現実的な、というよりも、つつましい報酬を提示しました。しかしそれすらもラバンは惜しみました(35節)。そこでヤコブは行動を開始します。まずは37〜39節です。ここでのヤコブの行動の詳細については、よくわかっていません。ただ、彼の行動の目的は明確です。交尾を促すことをとおして、ヤコブ自らが持つ群れ(おそらく色付きの家畜)を増やすことです。40節には、ヤコブの次の行動が記されています。色のついた羊どうしを交配して、自らのものとなる小羊を多く産ませました。続く41〜42節で、ヤコブの行動は続きます。ヤコブは単純な家畜の数だけでなく、その質についても自らが有利となるようにしました。すなわち強い羊が自分のものとなるように図ったのです。ヤコブが行ったこれらの工夫により、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになりました。この結果は、主の祝福がラバンではなくヤコブに与えられたことを物語っています。

 さて、ここからいくつかのことを考えてみます。まずはヤコブの工夫についてです。彼は家畜の交配をとおして、自らの財産を増やすべく行動しました。彼のなしたこれらの行動は、親の特徴が子に遺伝するという知識を前提にしています。現代の遺伝学の観点から見ても、ヤコブの行動の目的と結果は矛盾しないと言われています。創世記の時代には、当然ながら遺伝学など存在しません。しかも創世記は、全能の神を示すことを目的とした宗教文書です。その文書の中のここでの記載が、現代科学にも合致するほど現実的なものとなっています。それが今日の御言葉を特徴づけています。直前の場面において、ラバンはヤコブの報酬を不当な形で惜しみました。これはヤコブにとって、自らに与えられるはずの神の祝福が取り上げられようとしていることを意味します。これは財産の危機である以上に、信仰的な危機であり、神の約束の危機です。この危機を前にして、ヤコブは非科学的な奇跡にいたずらに傾倒することはありませんでした。現代の遺伝学にも通じるほどの現実的な知識や工夫によって、この危機に対処したのです。科学や一般的な知識・工夫などは、しばしば神と対立するものとして語られます。けれども科学的な知識や工夫もまた、神の御業のために用いられるのです。

 さて、今日の箇所にはもう一つの特徴があります。神の記載が一切ないことです。しかしながらヤコブの行動とその結果は、背後にある神の働きを示しています。なぜならヤコブに祝福が与えられたことが、彼をカナンに帰らせる神の約束の実現につながるからです。今日のお話は、ヤコブが信仰的であるがゆえに神に祝福されました、という教訓ではありません。ヤコブに神の祝福を与えられることによって、ご自身の約束を確かに実現してくださる神の御業が明らかになったのです。言い方を変えますと、神の御業が明らかになるような仕方で、ヤコブに神の祝福が与えられたのです。

 結局のところ、神の祝福は誰のもとに与えられるのでしょうか。その人が祝福されることによって、神の約束が実現し神の御業が現わされる。そのような人のところに、神の祝福は与えられるのです。新約時代を生きるわたしたちにとって、神の約束は主イエスキリストをとおして与えられています。そして神の御業の中心は、キリストの十字架と復活による罪人の救いにあります。これらが現わされる仕方で、神は祝福をお与えになられます。それゆえに、わたしたちが神の働きを示し主の十字架の救いの進展に携わるとき、そこに主の祝福は与えられるのです。わたしたちがキリスト者として生きることは、すべてを神任せにしこの世の工夫や科学や人間関係を無視して生きることではありません。神の救いの御業の進展のために、この地上の知識や工夫も、科学技術も、泥臭い人間関係すらも向き合って生きるということです。この歩みにこそ、神の祝福は与えられていくのです。

 

 現代社会においては、信仰を無視した科学や知識が力を持っています。その反動で、科学や知識を無視した信仰もまた力を持っているのです。地上のことはすべてかなぐり捨てて、ただ神の奇跡にすべてをお任せすればよい。そのような姿勢は、この地上での苦労や、悩みや、痛みを無視して切り捨てることにつながるでしょう。仮にこれら地上のことが重要ではないとするならば、キリストが世に来られ、十字架の痛みを負われたことの説明がつきません。キリストの実現される救いにおいて、地上の営みに向き合い、その痛みを担うことが必要なのです。神の祝福は、キリストの十字架に希望を置く者が、その実現を望みながら世の営みに向き合って生きることをとおして与えられます。わたしたちは、キリストの十字架と復活という神の救いの御業がこの地上に現わされるために生きるのです。そのためにこの地上で様々なことに悩み、知識得て、工夫しながら生きるのです。そこにこそ、主の祝福は与えられていくのです。