2023年10月15日礼拝説教「今こそ帰るとき」

聖書箇所:創世記31章1~16節

今こそ帰るとき

 

 聖書において「帰る」ことには特別な意味があります。エジプトでの奴隷生活やバビロン捕囚によって、神の民はたびたび故郷を離れて寄留の民となったからです。今日のヤコブもまた、故郷を離れて伯父ラバンのもとに身を寄せていました。そのような境遇の中にいる神の民に対して、神が一貫して語られるのが「あなたたちを帰らせる」という約束です。神の民にとって、帰ることそのものが、神の救いなのです。そして神はわたしたちにも、立ち帰ることを望んでおられます。神の御許へ帰ったら、その後に救われるのではありません。わたしたちが神に立ち帰ることそのものが救いなのです。今日の箇所から、「帰らせる」という神の救いの約束がヤコブに実現していきます。救いの始まりという大変特別なときが、今日の箇所で記されます。

 ヤコブが帰ることを決意した最初のきっかけが、ラバンの息子たちの発言でした。不誠実なラバンに対し、ヤコブは工夫を用いて財産を増やしてきました。それをラバンの息子たちは「我々の父のものを奪った」と主張しています。ラバンもまた、同じような反感を抱いていたようです。ヤコブの妻たちはラバンの娘です。ですからラバンも、ラバンの息子たちも、ヤコブにとっては家族です。しかしラバンの家は、ヤコブにとって安住の場所ではありませんでした。ラバンの家とは、相手を出し抜いてでも自分が得ることを第一とする世界を指しています。ヤコブはこの世界で富を得た成功者でした。しかしその成功は、ヤコブに安らぎをもたらしません。この気づきが、ヤコブがカナンに帰る決意をしたきっかけでした。

 そしてそのとき主の言葉がヤコブに語られます(3節)。前回主が語りかけられたのは、ヤコブがラバンの家に逃れる途中、ベテルで「必ずあなたを帰らせる」とヤコブに約束されたときでした。その後約20年もの沈黙を経て、主は彼に語りかけられました。主が、今こそ救いのときだと判断されたのです。人の救いは、どこまでも主のタイミングでなされます。しかしそれは、神が人の都合を全く無視されるということを意味しません。むしろ主は、ヤコブに語ろうとし続けておられたのかもしれません。そしてこのときようやくヤコブは主の言葉を聞くことができるほどに整えられた、とも言えるのです。ラバンの家という利益第一主義の世界のなかで、その成功を喜んでいる間は主の言葉を聞けません。事実、世の中で成功して今の自分に満足する人は、聖書の言葉を聞き入れることが難しいのです。自らの今の生き方に対して打ち砕かれたときにこそ、わたしたちは主の語りかけを聞くのです。

 こうして帰るきっかけが与えられたヤコブは、妻であるラケルとレアを野原に呼び寄せます。この場所を選んだのは、ラバンや彼の息子たちに会話を聞かれないためです。そこで妻たちに事の次第を説明します。まずは5~9節でヤコブから見た現状の説明がなされます。ここでは、妻たちのお父さんであるラバンの不誠実な行動がいくつか記されます。同時に、それに対して主なる神がヤコブに配慮する姿も語られます。神はわたしと共にいてくださった。神は、わたしに害を加えることをお許しにならなかった。神はお父さんの家畜をわたしにお与えになった。実際には、ヤコブは神の助けなど求めることなく、自らの工夫によってラバンの不誠実なふるまいに対処してきました。しかし、これら自らの行動の背後に神の働きがあったのだとヤコブは語るのです。

 この経験を経て示された主のご意思が10~13節です。それは夢の中で示されました。まず、山羊のつがいについて触れられています。この交配によって自らの報酬を増やしたのは、ヤコブ自身の工夫によります。そのことが、ここでは神のなさったこととして語られています。その結果、ヤコブは栄えました。しかしそれゆえに、ラバンは彼に対して不誠実な仕打ちをしたのでした。その仕打ちをも用いられて、ヤコブを帰らせるという神の約束、神の救いの道が示されたのです。ヤコブの工夫やラバンの悪意も含め、すべてのことのうちに、救いの約束の実現される神のご配慮があったのです。

 これに対する妻たちの反応が14〜16節で記されます。この発言から、妻たちの心にあるいくつもの気持ちを読み取ることができます。まずは、父ラバンに対する反感と怒りです。自分たちには嗣業の割り当て分はもはやない。わたしたちはもう、父にとって他人と同じだ。父はわたしたちを売った。それと共に、彼女らの財産への執着をも見てとれます。神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものだ。このような妻たちの気持ちは、極めて世俗的かつ人間的です。しかし妻たちがこのような気持ちを抱いていたからこそ、彼女らは、ヤコブが神の約束に従って帰ることに同意したのです。妻たちの負の感情をも、帰らせるという神の救いの約束の実現に用いられたのです。

 

 今日の箇所に限らず、ここまでラバンの家で起こってきたことはどれも極めて人間的な営みです。報酬をめぐるかけひき、工夫、騙し合い。そのなかで人々は苦しみ、怒り、恨み、ねたんでいます。それらすべてが、ヤコブを帰らせるという神の救い約束の実現に向けて用いられました。すべてのことの背後に、救いに導かれる神のご配慮があったのです。わたしたちもまた綺麗な世界に住んでいるのではありません。人の汚い感情にさらされながら、そしてわたしたち自身も同じように汚い思いを持ちながら生きています。それでもなお、その背後に神は働いておられ、十字架と復活のキリストの導きがあるのです。それを信じることができるのが、教会という場所なのです。そしてそのように信じることができたときこそが、帰るときなのです。そのときにこそ、神の御許へ帰るという救いが実現するのです。