2023年10月29日宗教改革記念礼拝説教「ただキリストのみ」

聖書箇所:使徒言行録4章1~12節

ただキリストのみ

 

 本日は宗教改革記念礼拝です。今回とりあげますのは、「キリストのみ」です。カトリック教会においては、キリストだけでなく聖人もまた祈りや崇拝の対象とされていました。救いを得るためには、キリストだけでは足りないのではないか。こうした思いから、キリストだけでなく立派な聖人の助けも借りようとしたのです。これは救いの根拠を、神だけでなく人間の立派さにも求めた結果です。それに対して、救いの根拠はどこまでも「キリストのみ」なのだという主張が宗教改革においてなされました。プロテスタント教会に属するわたしたちからすれば、キリストと共に聖人を拝むなど聖書の言葉に反することは当たり前のように思えます。ただし当時の状況を知ることなく批判すると、物事の本質を見失ってしまいます。そうならないためにも、当時の人々の心の中には何があったのかを学ぶことが大切です。

 では聖人崇拝を行うに至ったきっかけは何だったのでしょうか。そのことは、吉田隆先生の書かれた「五つのソラから」という本で説明されています。この本の中で吉田先生は、聖人崇拝の原因を神と人間との距離感が開くことにあると記しています。神であるキリストと、罪人である自分。この隔たりがあまりにも大きい。この思いそのものは、信仰的に見えます。しかしあまりに遠いがゆえに、キリストと自分との間に立ってくれる存在を人々は求めました。ここから、立派な聖人に間に入っていただいて救いに与ろうとし、聖人崇拝へとつながっていきました。ある面で信仰的にも見える動機から、聖人崇拝は始まったのです。それでも聖人崇拝が聖書の逸脱であることに変わりありません。ですから信仰的に見えるこの動機に隠された、信仰的ではない人の思いがあるのです。それは何か。それを今日読んでいただいた使徒言行録のお話しから見てまいりたいのです。

 本日は使徒4章の最初の部分を読んでいただきました。一つ前の3章で、ペトロヨハネは足の不自由な人を癒しています。これは単なる足の治療ではありません。彼らは足の不自由な人の生き方を変え、彼を救ったのです。それをきっかけに、4:4では男の数だけで5000人もの人々が信じて救われました。驚くべきことです。しかしその結果、彼らは逮捕され取り調べを受けることとなりました。彼らを取り調べた人々が挙げられています。彼らを逮捕した祭司たちや神殿守衛長、サドカイ派の人々。それに加えて次の日に集まった議員、長老、律法学者たちです。彼らは当時の宗教界のリーダーたちでした。神の救いの最前線、神にもっとも近く仕えていると理解されていた人々です。その権威を持って、ペトロとヨハネを取り調べたのです。リーダーたちが問題にしたのは、神に近く仕える自分たちを差し置いて、誰の力によってそれをなしたのかでした。ここで聖霊に満たされたペトロは、8~12節にかけて長い返答をしています。特に12節においては、「キリストのみ」の根拠となる言葉が語られます。

 彼らを取り調べていたリーダーたちは、言い返すことができませんでした。それでも彼らは主イエス・キリストを受け入れませんでした。なぜなら、このお方を十字架につけたのは自分たちだからです。キリストという唯一の救い主を認めることは、神の救いの最前線にいるはずの自分が実はしょうもない人間であることをさらすことと同義です。それゆえ彼らは、自分たちのだめな姿を隠して自らを守るために、キリストを受け入れることなく遠ざけたのです。ところで、キリストを受け入れることで自らのしょうもなさが明るみに出るのは、ペトロとヨハネも同じでした。特にペトロは、過去に主を知らないと言ってキリストを拒否しています。彼がキリストを宣べ伝えることで、自分が過去にやらかしてしまった失敗を明かさないわけにはいきません。キリストを受け入れる者には、誰しもこのようなことが伴います。なぜならキリストの十字架は、わたしの罪の身代わりだからです。キリストを受け入れるということは、わたしの罪をさらけ出すことと同義です。自らの罪や弱さを隠すことなく、さらけだすことができるか否か。それが、唯一の救い主キリストを受け入れることができるか否かの分かれ道です。

 このことを踏まえて、聖人崇拝の話に戻りましょう。一見信仰的に見える動機に隠された、人間的な思いは何でしょうか。それはキリストを遠ざけることで、彼を十字架につけるほどの自らの罪を覆い隠したいという思いです。ことさらにへりくだった姿を周囲に見せ、敬虔な信仰者を演じることをとおして、しょうもない自分の姿を覆い隠そうとする。そんな思いが、人々を聖人崇拝へと駆り立てたのです。わたしたちは手放しで聖人崇拝を批判することはできません。しょうもない自分の姿を隠したいという思いを、誰しも持っているからです。敬虔な信仰者を演じれば演じるほどキリストは遠ざかります。そしてキリストの十字架の恵みもまた遠ざかっていきます。こうして信仰生活は、敬虔な信仰者を演じなければ自分も他者も認められない窮屈なものとなっていきます。

 

 この窮屈な信仰生活からの解放として「キリストのみ」という主張がなされました。そこにあるのは、キリストを十字架につけるほどの罪人をも救う神の愛です。このキリストのみに救いがあるのですから、わたしたちはもはや救われるために立派な信仰者を装う必要はありません。わたしたちは罪人のまま、神の御前に出てよいのです。なぜなら、わたしたちの罪や弱さを担われた十字架と復活のキリストのみが、わたしたちの救い主だからです。救いはただキリストのみ。これはわたしたちを不自由に縛るための言葉ではありません。もうあなたは立派さや敬虔さで自らを装う必要がないという解放の言葉です。ここにこそ、人を救う驚くべき偉大な神の力があるのです。