2023年11月12日礼拝説教「すべての民が聞くために」

聖書箇所:テモテへの手紙二4章9~18節

すべての民が聞くために

 

 直前の箇所において、パウロは自らに死が切迫していることを強調して自身の思いを書いています。それは、主に仕えて地上の生活を歩み切った先にある希望をテモテに示すためでした。この希望が、いったいどのような類のものであるか。今日の箇所において、より具体的な形で明らかにされています。まずはパウロの置かれていた状況を、今日の箇所から確認しておきましょう。 大前提として、彼はローマで捕らえられています。それはローマ皇帝による裁判を受けるためでした。16節の「最初の弁明」は、この裁判手続きの一環で行われたものです。この結果によっては、パウロに即刻死刑が言い渡される可能性がありました。それゆえこの最初の弁明が、彼にとっての大きな山場でした。17節に「獅子の口から救われた」とあるように、彼はどうやらこの危機を乗り切ることができたようです。当面は殺されることがないという見通しが立ち、パウロはこの手紙を書いたのです。

 当時は電子メールも飛行機もありません。パウロの書いたこの手紙がテモテに届き、それを読んだテモテがエフェソからローマにやって来る。そのためには数か月の時間を要します。つまりパウロは、数か月間は殺される恐れがないという時間的な余裕を、最初の弁明を乗り切ったことによって手にしたのでした。当面の危機を回避したパウロではありますが、置かれた状況は決して理想的なものではありませんでした。それは特に、信頼できる仲間が自分のそばにいないという点にありました。その仲間とは10節によればデマス、クレスケンス、テトスです。そのなかでもデマスがいないことは、パウロにとっての大きな痛手でした。パウロにとって彼は、苦楽を共にした良き友人でした。彼こそが、最初の弁明のときに最前線に立って自分を弁護してくれるだろう。パウロはそう期待していました。しかしデマスは自らの身の安全を優先して、テサロニケに避難してしまいました。パウロは彼に期待していた分、深く失望しました。デマスに続くクレスケンスとテトスは、宣教の働きのためにガラテヤとダルマティアに行っていたようです。彼らはデマスとは違い、積極的な理由でパウロから離れた地にいました。しかし最初の弁明という危険な時期に彼らがいなかったことに変わりありません。それもまたパウロにとっては痛みでありました。

 信頼できる仲間のうち、唯一パウロのそばにいるのはルカだけでした。だからテモテよ、すぐに来てほしい。マルコも連れてきてほしい。そう、パウロは切に願ったのです。そのためにパウロはティキコを遣わしました。それはエフェソ教会におけるテモテの働きをティキコが引き継ぐためでした。ところでマルコを呼び寄せる理由として、11節には「彼はわたしの務めをよく助け手くれるからです」と書いています。パウロが彼らを呼び寄せるのは、何よりも自分の務めを継続するためでした。もっと具体的に言えば、自らの死によって宣教の働きに空白を生じさせないためでした。

 ただ理由はどうあれ、この手紙を書いている時点のパウロには、自分を支え助けてくれる人がそばにいませんでした。それだけでなく、14節には銅細工人アレクサンドロがひどく自分を苦しめていることが書かれています。ルカという例外はあるものの、誰もが自分から離れて助けてくれず、皆が自分の敵となっている。そのような状況のなかで、極めて危険な最初の弁明をパウロは迎えたのでした。しかしパウロは自分を見捨てた人々の責任を問いたいわけではありません(16節後半)。誰も助けてくれず、みんなわたしを見捨てた。けれども主は、わたしのそばにいて力づけてくださった。この17節の言葉こそ、パウロがテモテに伝えたかったことです。人間は自己都合な生き物です。どれほど信頼している人でも自分が苦しいときにそばにいてくれるとは限りません。しかし主なる神だけは、一番苦しいときにそばにいて力づけてくださる。そのことを、パウロは最初の弁明という危険な状況において身をもって体験しました。苦境のときにこそ、主なる神はそばにいて力づけてくださる。パウロのこの体験によって示されたこの事実は、苦境の中にいたテモテにも、そして今を生きるわたしたちにも励ましです。

 ですが、そこからもう一歩主の御心に踏み出す必要があります。主がそばにいて、力づけてくださる。そこには神の目的があります。それは神ご自身が救い出された神の民を通して、福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるためです。この神の目的は、パウロの身においては、一人で最初の弁明を行ったことにより実現しました。そのために主は、パウロのそばにいて力づけられたのでした。それだけでなく、皆パウロを見捨てたこともまたパウロの証しという神の目的へとつながりました。この神の目的の先に、神は天にある御自分の国へと救い入れてくださるのです。

 

 パウロもテモテも、極めて悪い状況にありました。そのようなときにこそ、自らが神の大きな目的の中に置かれていることが希望になります。たとえ好ましくないことであろうと、そこにもまた神の目的があるからです。そしてキリストの恵みによって救われたわたしたちがこの目的に従って歩むとき、その先には必ず神の御国があります。これがわたしたちに与えられている希望です。苦難の中でなおもキリストを信じて生きる。わたしたちのこの生き方をとおして、キリストの福音をすべての民族が聞くようになります。これは伝道活動に限ったことではありません。わたしたちの人生すべてが、主なる神のこの目的のために用いられるのです。ここにこそ、救われたわたしたちの生きる目的があり、希望があります。ここにこそ、わたしたちの生きる価値があります。この決して失われることのない価値ある生き方を、共になしてまいろうではありませんか。