聖書箇所:創世記31章22~42節
目に留められる神
旧約聖書に記されている神の民の姿の一つが、逃げる民、そして追われる民という弱々しい姿です。代表的な出来事は、出エジプトでしょう。それだけでなくアブラハムやダビデも時の権力者から追われ、弱々しい姿で逃げる経験をしました。ヤコブもまた、逃げる人でありました。彼は兄エサウから逃げ、今日の箇所においてはラバンからも逃げています。ヤコブを追うラバンは、自らが得ることを第一とするこの世の生き方の象徴です。魅力的に見えるこの世の生き方から必死に逃げることは、わたしたちを含め神の民の姿です。そして神の民は、往々にして逃げ切れないのもまた現実です。ヤコブもまた、ラバンから逃げきることができませんでした。しかしそこで神は介入されるのです。これはヤコブや旧約時代の神の民だけの体験ではありません。すべての時代の神の民に共通の体験です。
今日の箇所において、ヤコブは堂々とラバンに反論しているわけではありません。心中は恐怖でいっぱいだったでしょう。その証拠に、彼は黙ってラバンのもとを逃げたのです。またラバンは、お前たちをひどい目に遭わせることもできると語っています(29節)。決してハッタリではなく事実であったとわたしは思います。ヤコブはラバンに対して明らかに劣勢です。一方で、力を持っているラバンはヤコブに対して怒っています。怒りの理由は二つです。一つは、ヤコブが無断で故郷に帰ろうとしたこと。もう一つが、ラバンの守り神を盗んだことです。前者について、ラバンはいろいろと文句を言っています。けれども神の介入によって、故郷に帰ることを認めます。しかし後者の守り神を盗んだことについては、ヤコブを責めたのでした。
ラバンの守り神とは、いったい何でしょうか。異教の神、また偶像と言ってしまえばそれまでです。しかしそれでは、話の流れが見えてきません。ラバンは、この守り神を大切にしていました。ですから少なくともこの守り神は、ラバンの生き方を守り肯定してくれる神と理解することができます。キリスト教に限らず、宗教はその人の生き方の土台です。ラバンの守り神を盗む行為は、ラバンの生き方の否定につながります。それゆえにラバンは、この点については怒りをおさめずヤコブを責めたのでした。
ところで実際にラバンの守り神を盗んだのはラケルでした(19節)。ヤコブは、それを知りませんでした。そこで天幕を調べることを提案します。33節からは実際にラバンが天幕に入って守り神を探す、緊張感に満ちた場面が記されます。ラバンはヤコブの天幕に入り、レアの天幕や二人の召使の天幕にも入って探します。そしてついにラケルの天幕に入って守り神を探すのです。ここでラケルは、守り神が見つからないように工夫をします(34、35節)。それによってラケルは、守り神を隠し通すことができたのでした。守り神が見つからなかったことから、36節以降で今度はヤコブが怒ってラバンを責めます。ラバンが自分に対してしてきた不当な仕打ちを語り、これまでの恨みつらみを吐き出します。しかしヤコブは単純にラバンを責めるだけではありません。そのような不当な仕打ちのなかに、自身の神の守りがあったことを告白するのです(42節)。
今日のお話においては、ヤコブの神とラバンの守り神が対比されています。ヤコブの神とは、聖書に示されたわたしたちの信じる神です。労苦と悩みに目を留めてくださる神であり、神の民を追いたてる敵をも諭される神です。そして行動を起こして守ってくださる神です。ラバンの守り神はどうでしょうか。守り神でありながら、ラケルに守ってもらわなければならない神として描かれています。しかも月のもの、すなわち生理によって守られる守り神です。この聖書の時代において、生理は汚れと認識されていました。ラバンの守り神とは、人の汚れによって守ってもらう必要のある存在です。ラバンの守り神に対する強烈な皮肉が込められています。方や苦しみに目を留められて、行動を起こして守ってくださるヤコブの神がおられます。方や、人の汚れによって守ってもらわなければならないラバンの守り神があります。どちらが、頼りになる神でしょうか。火を見るよりも明らかです。
ここで力関係という側面から、今日のお話を整理しましょう。ヤコブとラバンの力関係は、ラバンに軍配があがります。実際にヤコブは、明らかにラバンを恐れていました。しかしヤコブの神とラバンの守り神の力関係を見ると立場は逆転します。守ってもらう必要のあるラバンの守り神に対して、ヤコブの神は自ら行動して守ってくださるお方です。このヤコブとラバンの関係が、そのまま真の神を信じ頼る生き方と、得ることを第一とする世の生き方との関係に当てはまります。現実的な側面だけで言えば、真の神を信じ頼りながら生きる人の力は微々たるものです。キリスト者の人口が1%に満たない日本においては、なおさらでしょう。けれどもわたしたちの神に目を向けるとき、この力関係は逆転するのです。
わたしたちの信じる神は、わたしたちの労苦と悩みに目を留めて行動を起こしてくださる神です。事実このお方は、キリストを世に遣わしてくださいました。そしてキリストは自ら十字架にかかられ、復活されることによって、わたしたちの罪を贖ってくださいました。ここにこそ、わたしたちの労苦と悩みに目を留め、自ら行動し、守ってくださる神のお姿が現れています。わたしたち自身には力はありません。けれども力ある神が、わたしたちの神でいてくださいます。だからこそわたしたちは、どれほど弱く見えても誰よりも強いのです。世の力を前にしたとき、わたしたちは自らの力のなさに怯えるでしょう。しかし自らの力ではなく、力ある真の神により頼んで生きる神の民として、この一週間を共に歩んでまいろうではありませんか。