2023年12月17日アドベント第三主日礼拝説教「すがりつく信仰」

聖書箇所:マタイによる福音書1章1〜6節a

ルツ記1章1〜19節a 

すがりつく信仰

 

 本日は、キリストの系図の三番目に登場する女性ルツを取り上げます。ルツについて記されているのが、旧約聖書のルツ記です。ルツ記は、士師が世を治めていたころ、という時代設定から始まります。それは神の民の罪が極まった悪い時代です。その時代に、飢饉が襲います。もはや救いようがない状況です。そのなかで、エリメレクの一家がユダのベツレヘムからモアブの野へと移住します。ベツレヘムという町の名前は、パンの家を意味します。またこの町は、主イエスがお生まれになった町でありダビデの出身地でもあります。聖書における神の希望の中心地と言ってもよい特別な町です。一方モアブは、神の民から忌み嫌われた民族でした。食べ物が豊富にあり、神の希望の中心地であるはずのベツレヘムから、忌み嫌うモアブの野へ。このような移住を、エリメレクの一家は強いられました。それほどにこの一家は追い詰められたのでした。それに加えて、モアブの野でエリメレクと二人の息子たちは死にました。ナオミとオルパとルツは、どん底の状況に追い込まれました。そのなかで、主がその民を顧みてくださったことを聞きます。ナオミは、故郷ベツレヘムへと帰ることを決意するのでした。

 このナオミのベツレヘムへの帰途に、二人の嫁はついていきます。しかしナオミは二人の嫁を、自分の里に帰るように諭します。嫁たちが自分の里に帰ることで、新しい嫁ぎ先が与えられる可能性があるからです。誰かに嫁いでその人の庇護下のもとに生きる。これがこの当時の女性にとっての、一般的な幸せでした。これは裏を返せば、女性だけで生きるには極めて厳しい時代であったということでもあります。それゆえナオミは二人の嫁たちに、自分の里に帰って嫁ぎ先を見つけ、幸せを得るようにと勧めたのでした。嫁たちはこの言葉を拒否し、ナオミについていくと言います。その嫁たちを、ナオミはさらに説得します(11節以降)。このような彼女らの関係は、配慮に満ちた美しいものに見えます。けれども、過度に美化すべきではありません。13節でナオミは、「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらい」と語っています。ナオミが嫁たちを帰そうとするのは、自分のためでもありました。ナオミには、嫁たちを養う余裕がナオミにはありません。またモアブ人の嫁たちを連れ帰ることで、周囲から偏見の目で見られるでしょう。また嫁たちと共に帰ることで、モアブの野で家族を失った自らのつらい歩みが嫌でもついてまわります。ナオミにとっても嫁たちにとっても、一緒にベツレヘムに帰るのは賢い選択ではありません。そこでオルパは、しゅうとめに別れの口づけをします。一方ルツはナオミにすがりついて離れず、おそらくルツ記でもっとも有名な16節の言葉を語ります。ルツは主なる神を引き合いに出して、意地でもナオミについていく決意を語ります。その決意が固いことを見て、ナオミは説き伏せることをやめたのでした。

 ナオミの神にすがりついたルツは、模範的な信仰者なのでしょうか。ルツ記は、彼女をことさら理想的な人物として描いてはいません。ですから彼女をいたずらに美化することは、控えるべきです。おそらくルツは、たくさんの選択の中から主なる神を選び取ったのではありません。主なる神にすがるしか望みがなかったのです。それでも、ルツのこの決断には多くの逆風があります。ルツはこの決断で、再婚という一般的な女性の幸せを手放しました。ベツレヘムでは極貧の生活が待っています。何よりも姑のナオミが、彼女の選択を歓迎していません。18節の「ナオミは説き伏せることをやめた」という記載は、ナオミがルツの選択に不満を持っていたことを示しています。これらの逆風の中で、ルツは主なる神に頼って生きることを決断しました。この決断の先に、神の救いの御業が現れていくのです。

 クリスマスの救い主の救いは、逆境のなかで実現していくものである。このことが、ルツの歩みから明らかにされます。ある幸福学の教授が、「幸せ」を「その人にとって望ましい状態で不満がないこと」と定義していました。この定義からすれば、ルツは明らかに不幸です。この幸せを求めて合理的な行動をしたのは、ナオミのもとを去ったオルパでした。自らにとって望ましい状態を求め不満がないことを第一としつつ、神にすがりつくことは困難です。望ましくない状況のなかで、不満だらけの状況に追い込まれ、その状況に向き合うときに、わたしたちは神にすがりつくことへと導かれるのです。ルツをはじめ聖書に記されている神の民とは、力のない民です。それゆえに、大国の圧倒的な力の前にほんろうされた人々です。そのなかで、必死に神にすがりつく。それがルツの姿であり、神の民の姿です。その先に、キリストによってもたらされるクリスマスの光が与えられるのです。

 

 今の世の中の姿を見るときに、理想とはほど遠い現実がそこにはあります。誰もが生きることに余裕がなく、希望を見出すことが難しい時代です。わたしたちは、そのような時代にほんろうされる弱い存在に過ぎません。しかし今の時代がそのような時代だからこそ、むしろ神の与えてくださったクリスマスの光を見ることができるのです。この光を求め、主なる神に必死にすがりつきながら、わたしたち神の民は生きていくのです。クリスマスと聞くと、何の悩みも不満もなくみんな笑顔で幸せそうに過ごす姿を想像するかもしれません。しかし聖書に記されたクリスマスの希望は、そのようなところにはありません。不満が多く、ストレスフルな歩みのなかで、足をひきずりながら神を求め、すがりつかざるを得ない。それがここに集められたわたしたち一人一人の姿です。しかしそこにこそ、クリスマスに与えられた確かな救いの希望が見出されていくのです。