2024年1月14日礼拝説教「救い主がもたらす不安と喜び」

聖書箇所:マタイによる福音書2章1~12節

救い主がもたらす不安と喜び

 

 引き続き、キリストの誕生というクリスマスの御言葉に聞きます。救い主を与えるという神の約束の実現として、主イエスキリストはお生まれになりました。それが新約聖書の一番初めの系図で記されました。そして先週は、約束のキリストがお生まれになった様子を学びました。それに続く今日の箇所では、キリストがお生まれになったことに対する周囲の人々の反応が記されています。皆もろ手をあげて救い主の誕生を喜んだわけではありませんでした。救い主の誕生を前にして、人々の反応は喜びと不安の二つに分かれました。救い主の誕生によって、それまで見えていなかった人と人の境界線が現れることになったのです。

 このことに関連して、今日の物語は登場人物どうしを対比しながら描かれています。まず対比されているのは、ユダヤ人の王としてお生まれになった主イエスと、ユダヤの地を政治的に支配していたヘロデ王です。権力を持っていたのはヘロデ王です。それにも関わらず、恐れにとらわれていたのもヘロデ王でした。それは彼がユダヤ人ではなくイドマヤ人であったことが影響しています。彼はユダヤの地で権力をふるいながらも、自らが支配するユダヤ人たちからは本物の王と見られていないことを自覚していました。そんな彼のもとに、ユダヤ人の王の誕生の知らせがもたらされたわけです。ヘロデ王からすれば、ユダヤ人の王として生まれた幼子を警戒し恐れるのはある意味当然です。ヘロデ王だけでなく、彼の周りにも恐れと不安があふれていました。それに対してユダヤ人の王たる主イエスの周りには占星術の学者たちの喜びがあり、ささやかな平和がありました。

 さて今日のお話においては、もう一つの対比を見ることができます。占星術の学者たちとエルサレムの人々です。占星術の学者たちは、およそ1000キロ離れた東方の国から旅をしてやってきました。彼ら自身はユダヤ人ではありませんでした。よって占星術の学者たちは、血筋においても住んでいる場所においても、救い主からは遠いところにいた人々でした。それにもかかわらず、彼らは救い主を求めて1000キロもの道のりを会いに来たのでした。それに対してエルサレムの人々はどうだったでしょうか。彼らはユダヤ人です。そしてエルサレムからベツレヘムまでの距離はおよそ10キロです。血筋においても住んでいる場所においても、救い主の近くにいた人々です。しかし神の約束の実現に際して、主イエスに会いに行くことをしませんでした。彼らはヘロデ王と同じように、ただ不安に駆られるばかりでした。

 ところでユダヤ人であるはずのエルサレムの人々が、ユダヤ人の王の誕生を不安に思ったのはなぜでしょうか。最も考えられるのは、ヘロデ王が怒り狂って暴走することへの恐れです。自分たちの生活にも影響があるのではないか、という類の不安です。それだけではありません。このとき、ヘロデ王はローマ帝国の庇護下にありました。このときのローマ帝国の宗教政策は、反乱を起こさない限り寛容でした。しかしユダヤ人の王によって反乱が起こったら、ローマ帝国という圧倒的な力によって現在の日常生活も信仰生活もあっという間に破壊されることは目に見えています。エルサレムの人々は、それを何よりも恐れたのでした。

 エルサレムに住んでいた人々は、ユダヤ人として聖書に記された神の約束を知っており、おそらく「救い主を早く与えてください」と神に願う言葉を口にしていたことでしょう。しかしいざ救い主が与えられると、そのことにおびえました。神の約束の実現よりも、これまでの自らの歩みが変わらず続くことを彼らは望んでいました。それは彼らの神への期待が薄かったためです。こうして不安にかられたエルサレムの人々が、のちに主イエスキリストを拒否して十字架につけることになります。主イエスキリストを十字架につけたのはたぐいまれなる極悪人ではなく、現状からの変化を恐れる普通の人々です。それは神の御子キリストによって自らが変わることを拒否した人々です。すなわち、神の約束や神の御業に期待しなかった人々ということもできます。一方、遠くから旅をして主イエスにお会いした占星術の学者たちは、不安ではなく喜びにあふれています。彼らは神の約束の実現であるユダヤ人の王に大きな期待をよせていました。この期待が、彼らに1000キロもの旅をさせました。こうして彼らは救い主と出会い、それによって大きな喜びに満たされました。この喜びのなかで、占星術の学者たちは幼子を拝み、贈り物をささげました。同じことは、わたしたちが今ささげている礼拝にも当てはまります。わたしたちもまた主イエスに出会った喜びの中で神を礼拝し、そして自らをささげることへと導かれるのです。この喜びは、救い主を与えるという神の約束の実現として与えられたものです。どのような状況においても、どれほど罪深い者であっても、神は救い主によってお救いくださる。これが神の約束です。だからこそ、どのような状況においても、どれほど罪深い者であろうとも、どれほど救いから遠く離れていようとも、神の民は約束を実現してくださる神に期待し続けるのです。

 

 わたしたちは変化の中を生きています。しかし決して変わらないものがあります。それは神の約束であり、十字架のキリストによる救いであり、そこに示された神の愛です。これらは決して変わることはありません。それゆえにこの神の約束に、救いに、そして神の愛に、期待して良いのです。この神に期待して旅をした占星術の学者たちには、救い主との出会いが与えられ、想像もつかないほどの喜びが与えられました。わたしたちもまた、神の約束の実現であるキリストに期待してよいのです。この期待の先に、わたしたちにもまたこの上ない喜びが与えられるのです。