2024年1月21日礼拝説教「神の裁きを証しとして」

聖書箇所:創世記31章43節~32章1節

神の裁きを証しとして

 

 ヤコブがカナンへと帰ろうとしている場面です。伯父のラバンはヤコブを連れ戻すために後を追い、ついに追いつきます。そして抗議をしますが、神が介入されたこともあり最終的にはヤコブがラバンのこれまでの仕打ちを責めることとなりました。それに続く今日の箇所においてヤコブとラバンは契約を結び、それぞれの場所へと帰っていきます。一応の和解がなされたと言えます。和解について考えることは、わたしたちにとっても大切です。人と人との対立を癒すのが和解だからです。そしてわたしたちにとっては、神との和解も大切です。罪とは神に敵対して生きることです。それゆえ罪の赦しは、神との和解を含みます。それならば、聖書において和解はどのようになされるのでしょうか。それを今日の箇所から教えられたいのです。

 直前の場面で、ラバンはヤコブから責められました。そして43節で、ラバンはヤコブに答えたと記されています。しかしラバンは、ヤコブが責めたことには触れません。おそらく反論できないのでしょう。それでもなおラバンは、ヤコブから責められたことを棚上げにして自らの主張を繰り返します(43~44節)。もしわたしたちがヤコブの立場だったとしたら、不都合なことを棚上げして上から目線で語り続けるラバンの態度に腹が立つでしょう。しかしヤコブはラバンの提案をそのまま受け入れます。一つの石を取り、それを記念碑として立てます。一族の者には「石を集めてきてくれ」と言い、石塚を築きます。今日の箇所に記されているヤコブの発言はこれだけです。ヤコブはもうラバンに反論することはありません。最終的にヤコブは、ラバンと契約を結びます(53節)。ラバンもまた、孫や娘たちに祝福を与え、平和のうちに帰っていきます。両者は和解したといってよいでしょう。なぜ、あれほど対立し責めあっていた両者は和解することができたのでしょうか。その中心には、二人が結んだ契約があります。

 この契約は、石塚を証拠として結ばれました。この石塚をラバンはアラム語でエガル・サハドタと呼び、ヤコブはヘブライ語でガルエドと呼びます。二人は、普段話す言葉も異なっていたようです。この点においても、和解の困難さがあります。しかしながら証拠の石塚に基づく契約により、二人は和解します。ではこの石塚には、どのような意味が込められていたのでしょうか。それは、その場所がミツパ(見張り所)と呼ばれたことに示されています。聖書には、ミツパと呼ばれる場所が複数登場します。比較的ありふれた地名であったのでしょう。大切なのは、この地名の意味です。その意味を49節からと51節からの二つの発言によって、ラバンが語っています。この発言においてもラバンの態度は相変わらずです。ラバンが考えを改めたり、謝罪したりしていないことは明らかです。ゆえにラバンの態度の変化によって和解が実現したのではありません。両者の和解が実現したのは、ラバンが説明した契約の内容によります。ここで大切なことは、ミツパで見張りを行われるのが主なる神だという点です。主なる神が、この契約に基づいてヤコブとラバンの間を正しく裁いてくださる。この神の裁きを契約の証しとしたからこそ、両者は契約を結んで和解することができたのです。

 こうしてヤコブとラバンは無事に和解することができました。しかしわたしたちが生きる現実世界において、和解は決して容易ではありません。それでもなお対立する人々が和解できるとするならば、どのような条件が必要でしょうか。「相手が誤ってくれたら」「相手が考えを改めてくれたら」「相手が変わってくれたら」。それならば、多くの場合和解できるでしょう。しかし対立する相手の行動変化を和解の条件とする限り、本当の意味で和解することができません。せいぜい力の強い方が、弱い方に無理やり頭を下げさせ、謝罪させることしかできません。わだかまりが残り、後から対立がぶり返すでしょう。したがって相手の行動変化を条件としていては、本当の意味で和解することはできません。和解の土台は、相手の変化や謝罪ではなく神の裁きにある。それを今日の御言葉は示しています。

 ならば、神の裁きとはどのようなものでしょうか。この神の裁きは、キリスト(特に十字架)によってなされました。それは神に逆らう悪人を罰して、正しい人を優遇するような裁きではありません。キリストの十字架は、正しい者が犠牲となって正しくない者の罪を赦すためになされました。それがキリストの十字架であり、神の裁きです。自らが血を流して正しくない者を赦す。この神の裁きを土台とするときにこそ、本当の和解が与えられるのです。それは正しくない相手に行動変化を要求するまえに、まず自らが痛みを負って和解へと踏み出すことです。しかし実際には、それが難しいのです。正しいはずの自分がまず犠牲になることを、誰もが嫌うからです。しかし自らを絶対に正しい者であると理解し、それゆえに自らの犠牲を避けて対立相手に変化を強い続ける限り、人と人との和解は実現しません。人と人とが和解するには、正しくないわたしたちのためにまず自らを犠牲にされたキリストの十字架の裁きを土台にするほかありません。それゆえ和解には、痛みが伴います。それでもなお、まず自らが和解に向けて一歩踏み出すこと。それが和解への道なのです。ヤコブも、態度を改めないラバンとの和解は痛みであったはずです。それでもなおヤコブは神の裁きを証しとし、この裁きに信頼して和解の道を進んだのです。わたしたちもまた、ヤコブと同じ和解の道を進んでまいりたいのです。正しいお方であるキリストがまず先に、わたしのために自らを犠牲にしてくださった。この神の裁きを自らの土台とするときにこそ、わたしたちは和解への道を進むことができるのです。そしてその和解の先にこそ、本当の平和が実現するのです。