聖書箇所:マタイによる福音書2章13~23節
御言葉が実現するために
主イエスがお生まれになったクリスマスの出来事のあとのお話です。クリスマスと聞くと、多くの方は静かで綺麗で平和な情景を思い浮かべるでしょう。しかし実際の状況は大きく異なります。クリスマスをきっかけとして激しい怒りが巻き起こり、血なまぐさい殺戮がなされました。そのなかで幼子主イエスと両親もまた、エジプトへの避難を強いられます。聖書に記されているのは、「聖」という言葉とはかけ離れた人間の汚い現実です。その中で、なおも御言葉は力を持って実現していきます。
本日の箇所において悲惨な状況をもたらしたのは、ユダヤの王であったヘロデでした。ヘロデ王は晩年、人々を過度に恐れて生きることになりました。自分をわずかでも否定する存在を、彼は許ことができませんでした。そのヘロデ王に対して、ユダヤ人の王の誕生の知らせが占星術の学者たちによってもたらされました。しかも自らが占星術の学者たちにだまされたことも知ります(16節)。自らを否定する存在を許せないヘロデ王が、このことに大いに怒ったのは当然でありましょう。その結果、ベツレヘムとその一帯にいた二歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。こうして主イエスは、誕生して早々に激しい殺意が向けられることとなりました。そのような状況のなかでヨセフは、一家の家長として救い主を守ることが求められました。彼が危機に対処する姿が、今日の箇所では記されています。ヨセフはどのように対処したか。主の天使が告げた言葉に従うことによってでした。例えば13節で告げられた天使の言葉のとおり、14~15節でヨセフは行動しました。同様のことが20節と21節にも当てはまります。そして何よりも注目したいのが、この物語をとおして預言者の言葉が実現していったことです。「預言者をとおして言われていたこと」とは、旧約聖書に記された預言の言葉を指しています。この一連の出来事をとおして、確かに聖書の御言葉が実現したのです。ただし今日の登場人物は、旧約聖書の預言を実現しようと思って行動したわけではありません。ヨセフは天使の言葉に従い、ヘロデ王は恐怖に従ったに過ぎません。しかしその結果、旧約聖書の預言が実現していきます。その中心に、幼子である主イエス・キリストがおられました。
では主イエスを中心にして実現した預言の言葉はどのようなものだったでしょうか。15節で引用されているのはホセア書11:1です。そして17~18節で引用されているのはエレミヤ書31:15です。ここで引用されている預言の言葉は、未来を言い当てる予知として語られた言葉では必ずしもありません。前者のホセア書は出エジプトによる神の救いを、そして後者のエレミヤ書はバビロン捕囚での悲惨を語った言葉です。しかしこれらの言葉が、主イエスの誕生によって実現したとマタイは記します。つまりバビロン捕囚のときのような人の罪による悲惨が主イエスの周りにあり、出エジプトにおける神の救いが主イエスにおいて実現しているのです。こうして聖書の言葉が実現していくなかで幼子主イエスは守られ、イスラエルの地に帰って来ることができました(21節)。しかしそれですべての問題が解決したわけではありません。ヘロデ王の死後、息子のアルケラオが父に代わってユダヤを治めることとなりました。ヨセフはアルケラオを恐れ、ガリラヤ地方に引きこもってナザレの町に住むことになりました。
御言葉が実現しても、そして天使によって告げられた御言葉に従って歩んでも、ヨセフから恐れが消えさることはありませんでした。それは主を信じるわたしたちの現実でもあります。しかし主に従う者の恐れをも、神は預言者の言葉の実現に用いられます。こうして実現したのが、23節に記されている預言者の言葉です。ここで引用されているのはイザヤ書11:1です。このイザヤ書にある若枝が、ヘブライ語ではナザレです。ナザレ人と呼ばれる主イエスこそ、旧約聖書で約束されている救い主なのです。一方でナザレの町そのものは、人々から重んじられた町ではありませんでした(ヨハネ1:46参照)。ですから主イエスがナザレ人と呼ばれることは、このお方が人々からさげすまれる救い主であることをも示しています。
この救い主と共に歩んだのが、父ヨセフでした。救い主のために苦労した彼は、誰かから称賛されることはありませんでした。それどころか彼は、この場面を最後に、マタイ福音書ではもう登場しません。早くに亡くなったと考えられています。物語の登場人物という視点で見るならば、彼はどこまでも不遇な脇役です。それに対してヘロデ王は、自らが王であることに固執しました。それは、人々から注目される主役に固執したということです。彼は特別悪い人間ではありません。自らが人生の主役でありたいというヘロデ王の心を、誰もが持っています。誰もが主役であることに固執するからこそ、今でも人と人とが主役の座を争って殺し合うのです。
わたしたちが御言葉に従って生き、御言葉に示された主イエスに従って生きるということ。それは、自らが主役であろうとするヘロデ王の生き方から、不遇であってもあえて脇役を引き受けるヨセフの生き方になるということです。では不遇な脇役であったヨセフの生き方は、不幸なのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら彼の歩みには、常に主イエスが共におられたからです。悩みながら天使の言葉に従ったヨセフの行動が、主イエスの十字架と復活という神の救いの御業につながっていくのです。そこに喜びを見出すとき、脇役の人生であっても喜びの中で生きることができるのです。何よりも、主イエスキリストがわたしの人生の主役でいてくださいます。わたしたちが脇役としてなしたささやかな働きを、人を救う素晴らし御業として主イエスは用いてくださいます。