2024年3月3日礼拝説教「御言葉に留まる」

聖書箇所:マタイによる福音書4章1~11節

御言葉に留まる

 

 神の霊に導かれて荒れ野に行かれた主イエスが、悪魔から誘惑を受けられるお話です。主イエスは、意に反して誘惑を受けられたのではありません。誘惑を受けることが目的でありました。そこで四十日間、昼も夜も断食して空腹を覚えられます。ここから、3回にわたって悪魔による誘惑が始まります。

 一つ目の誘惑は主イエスが空腹であることを踏まえてなされています(3節)。それに対して主イエスは旧約聖書の申命記8:3を引用してお答えになられます。御言葉があれば食べ物などなくても生きられるといった神秘を語っているのではありません。神の口から出る一つ一つの言葉を無視して、パンだけを求めて生きるところに命はないのです。そのことを主イエスは、聖書に記された神の言葉によって示されます。こうして一つ目の悪魔の誘惑を退けたのでした。それを聞いた悪魔は、主イエスを神殿の屋根の端に立たせたあと、詩編91:11~12を引用しながら二つ目の誘惑をします。主イエスが聖書を引用して一つ目の誘惑をしりぞけたことを踏まえてのことでしょう。悪魔も聖書を用いるのです。用い方によっては、聖書は悪魔の武器にもなるのです。ところで悪魔の聖書の用い方には、面白い特徴があります。悪魔が引用した詩編の箇所を見ますと、「あなたのどの道においても」という言葉があります。悪魔の引用には、この部分が省略されています。聖書のなかの都合の悪い部分を省略し、都合のいい部分だけを引用して、悪魔は自らの意見を主張するのです。これが悪魔の聖書の用い方です。それに対して主イエスは、申命記6:16から引用して反論されます(7節)。試すこととは、神を評価することです。悪魔の誘惑の根底には、自らが神の上に立って評価しようとする傲慢があります。それは神への信仰とは対極にある思いです。主イエスは御言葉によって、それを否定されます。 続いて三つ目の誘惑です。悪魔は主イエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄を見せます。そして「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑します。すると主イエスは申命記6:13を引用しながら、神以外のものを拝み、より頼み、仕えることを明確に拒否されます。ついに悪魔は離れ去り、天使たちがイエスに仕えたのでした。

 このお話は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。悪魔の怖さを学ぶべきでしょうか。それとも、パンやこの世の栄光をひたすらに求めるべきではない、といった教訓として理解すべきでしょうか。そのような気づきも得られるかもしれません。けれどもそれがこの御言葉の中心メッセージではありません。前後の文脈に着目することで、それが見えてきます。今日の箇所で主イエスを導いた霊は、受洗したあと主イエスに降った神の霊です(3:16)。この霊の降りと共に、主イエスが神の愛する子であることが示されます。ですからここにおいて主イエスに降った神の霊とは、主イエスが神の子救い主であると示す霊と言えます。この霊が、主イエスを誘惑の荒れ野へと導きます。その目的は、神の子救い主である主イエスの姿を明らかにするためです。このことは「神の子なら」と繰り返す悪魔の誘惑の言葉にも表れています。この観点から、悪魔の誘惑を理解すべきでしょう。一つ目の誘惑は、神の子が空腹に苦しむことなどあり得ないという、弱さと無縁の強い神の子像に基づいています。二つ目の誘惑は、危険とは無縁の、絶対安全な神の守りの内にある神の子像に基づいています。三つ目の誘惑は、世の中すべてを思いのままにできる力を持つ神の子像に基づいています。これら悪魔が前提とする神の子像は、わたしたちが「神の子」と聞いて普通に思い浮かべる姿ではないでしょうか。わたしたちが「このような神の子であってほしい」と期待する姿を主イエスに押し付けようとする。それが悪魔の誘惑の正体です。

 

 それに対して主イエスは申命記の御言葉をとおして、自分はそのような意味で神の子なのではないと反論されます。ここにこそ、今日のメッセージの中心があります。神の子救い主がどのようなお方かを知ることが、わたしたちにとって何より大切です。それさえわかれば、悪魔の対処法も、わたしたちがすべきことも、おのずと見えてきます。では今日の箇所において、神の子救い主の姿はどのように描かれているでしょうか。主イエスは、神の霊に導かれて荒れ野へと向かわれます。権威によって誰かを従わせるのではなく、自ら神の霊に従う姿が見られます。そのなかで主イエスは、空腹という弱さをあえて受けられます。悪魔の誘惑に対しては、聖書の御言葉をとおして反論しています。御言葉により頼み、御言葉に従う神の子の姿がそこにはあります。ここに示されている神の子救い主とは、弱さの中で徹底的に神に従うお方です。神に従うとは、すなわち神の口から出た聖書の言葉に徹底的に従うということです。それが神の子救い主の姿です。その姿の究極が、10節に引用された「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉でしょう。このようにして御言葉に従う神の子から、悪魔はついに離れ去ります。この神の子に対して、悪魔は支配する力を持ちません。かえって神の御心を示す天使たちが、彼に従います。この神の子にこそ、人を救う神の力があるのです。弱さの中にあっても御言葉に留まり、そのなかで主を拝み、ただ主に従い続ける救い主にこそ、人を救う力があります。このような神の子救い主による神に従う歩みの先に十字架と復活があり、わたしたちの救いがあるのです。わたしたち自身もまた、御言葉に留まって歩み続けようではありませんか。それがどれほど弱々しく惨めに見えようとも、その歩みにこそ確かに人を救われる神の子救い主が共にいてくださるのです。