2024年5月19日ペンテコステ記念礼拝説教「神の霊から出る言葉」

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一12章1~3節

神の霊から出る言葉

 

 本日はペンテコステ記念礼拝です。ペンテコステは、五旬祭の日に弟子たちに神の霊である聖霊が降ったことを覚えるお祭りです(使徒2章)。このとき弟子たちは、聖霊に満たされて様々な国の言葉で話し始めました。こうして世界中にキリストの十字架と復活による救いが知らされました。そして主イエスを信じるわたしたちの内にも、確かに聖霊が働いてくださっていると、聖書は教えています。では聖霊は、人の内でどのように働くのでしょうか。今日の箇所で使徒パウロが、まさにこのことをコリント教会の人々に教えています。

霊的な賜物、すなわち聖霊によって与えられる賜物について、次のことはぜひ知っておいてほしいと、パウロは語りかけています。原文を直訳すると「あなたたちが知らないままでいることを望まない」という否定の言葉です。本来知っているべきことが理解されていないという、叱責に近い言葉がここで記されています。それはコリント教会において、霊的な賜物の理解に端を発した問題が生じていたからでした。この問題は、我を忘れた状態で人には理解できない言葉を語る異言の賜物が、聖霊から与えられることさら優れた働きとして理解されていたことから生じたものでした。コリント教会で異言が特に優れた聖霊の働きだと理解されていた背景には、当時の一般的な宗教観にありました。当時広く受け入れられていたギリシア宗教において、異言によって神々の言葉を語ることが優れた働きであると理解されていたのです。これがキリスト教における聖霊と結びついた結果、異言を語ることが聖霊による特別に優れた働きとして理解されるようになったのでした。このことがコリント教会で引き起こした問題は、主に二つです。一つは、異言を語ることができない人々が信仰的に劣っていると理解されていたこと。もう一つは、所かまわず異言が語られ、集会の秩序が無視されていたこと。どちらもコリント教会にとって極めて深刻な問題でありました。

 このような状況に陥っていたコリント教会の人々に対して、パウロは異教徒時代のことを思い起こすように促しています(2節)。異教徒時代の彼らは誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれていました。「ものの言えない偶像」という言い方は、力のない異教の神々を指す常套句です。ものの言えない偶像が、なぜ人々をひきつけたのでしょうか。偶像の代わりに人間が語っていたからです。それは偶像の神々の言葉であるように語られながら、実際には人の語る言葉に過ぎませんでした。それでもそれが神々の語った言葉として広く受け入れられていました。その最たるものが、異言であったのです。同じように、コリント教会で語られていた異言もまた、聖霊が語らせた神の言葉として理解されていました。それがコリント教会に大きな問題をもたらしていたことは、先ほどお話したとおりです。このような問題を避けるためには、教会で語られた言葉が本当に聖霊の働きによるものなのかどうかを判断することが必要です。

 聖霊が人に語らせた言葉か否かを判断する基準を、パウロは3節で二つ示しています。一つ目は、神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わない、という点です。異言を語るなかで、ふと異教徒時代の言葉が口をついて出てしまうことがあったのかもしれません。それは明らかに、聖霊の語らせる言葉ではありません。二つ目の判断基準は、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないという点です。「イエスは主である」は、原始的な信仰告白の言葉です。単にこの言葉を口にするか否かという上部だけの話ではありません(マルコ1:24やマタイ7:21参照)。この信仰告白に従って、実際にイエスをわたしの主人として生きるところに、聖霊の働きは現れるのです。

ではこの生き方において、どのような形で聖霊の働きは現れるのでしょうか。パウロはこの後の12:7において、一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためだと記されています。その流れで13章からは、愛の教えが記されます。愛に基づいて、他者を生かす生き方。これこそが、「イエスは主である」と告白する生き方です。実際主イエスご自身が、そのように生きられました。キリストは神でありながらも、わたしたち罪人のために地上に降って十字架にかかられたのです。このお方を我が主と告白させ、このお方に従う生き方へと導くこと。それがペンテコステにおいてわたしたちに与えられた聖霊なる神の働きです。

 このことが分かりますと、異言の賜物をことさらに強調していた人々の問題点が見えてきます。異言そのものは、悪いものとして否定されるわけでは決してありません。問題は、異言を強調した人の心にあったものです。それは他者を生かすことよりも、自分の気持ちよさを優先し、自分の信仰の在り方に閉じこもることです。そこに隣人への愛は見られません。この点に、コリント教会の抱えていた根本的な問題点がありました。他者に理解されない異言を強調することで、他者を理解し愛することを拒否し、自分の都合の良い信仰に閉じこもろうとしたのです。それは聖霊が語らせる言葉ではなく、人が自分の思いのままに語る言葉に過ぎません。

 わたしたちの内に聖霊が働くとき、もはやそのような自らの内に閉じこもる生き方はできません。罪人を生かすために自らをささげられた主イエスを我が主とするとき、もはや自分だけの信仰、自分だけの気持ちよさに閉じこもることなどできないのです。むしろ人々の重荷を理解し、その人々を何とか生かそうとする愛の関係に生きることへと導かれます。それをさせる愛の霊が、ペンテコステにおいてわたしたちに与えられたのです。