2024年6月2日礼拝説教「律法と義」

 

聖書箇所:マタイによる福音書5章17~20節

律法と義

 

 山上の説教において主イエスが教えられたことの一つは、律法の理解です。この当時、聖書の律法を教える人と言えば律法学者やファリサイ派の人々でした。彼らにとっては、律法を守ることが事実上救いの条件でした。しかし主イエスの教えは、彼らとは違っていました。主イエスは地上の御生涯をとおして、律法を行うことによる救いではなく、信仰による救いの道を示していくことになります。山の上で主イエスの教えを聞いた人々もまた、律法学者やファリサイ派の人々の教えと主イエスの教えの違いを感じ取っていたはずです。しかしこの違いから、主イエスの教えに対する誤解も生じます。もはや律法を行うことは必要ない。信じてさえいれば、堅苦しい規則に縛られることなく自らの望むまま自由に生きればよい。こういった誤解です。無律法主義と言います。現代においても、このような誤解は度々生じます。わたしたち自身も事実上無律法主義に近い考えに立ち、「これぐらいでいいや」と信仰的に妥協してしまうのです。

 この無律法主義の誤解に対して主イエスは、17節においてくぎを刺しておられます。ここで「廃止する」とは、他の箇所では破壊するという意味でも用いられる言葉です。宗教にしても政治にしても、人と人とが共に生きていくためには決まりや法が不可欠です。そこでは、古くからのルールを保とうとする保守の立場と、時代にあわせて柔軟に変えていこうとするリベラルな立場に、人の意見は分かれがちです。保守かリベラルかで言えば、主イエスは明らかに保守の立場です。しかも主イエスの立場は、ただ守ることだけには留まりません。古く旧約時代から伝えられ教えられてきた律法を、より強固にして完成させるために、主イエスは世に来られたのです。その流れで主イエスは、旧約聖書に記された律法がいかに時代を超えて不変であるかを教えておられます(18節)。天地が消えうせることと、律法から一点一画が消え去ることが、同じ重みで語られています。それほどまでに、聖書にある律法が変わることはあり得ないのです。

 時代を超えて普遍である律法は、天の国とも関わっています。天の国とは、より厳密に訳すならば天の王国です。主なる神を王とし、このお方に従う人々が集まる国。それが主イエスの教えておられる天の国です。この国の王たる神の御心が律法に示されている、というのが当時の一般的な聖書理解でした。主イエスもまた、この立場で教えておられます。だからこそ、それを破り、そうするように教える者は天の国で最も小さい者と呼ばれるのです。反対に律法を守り、そうするように教える者は、天の国では大いなる者と呼ばれます。天の国が、律法に示された神の御心に従うところだからです。

 この天の国の姿は、「義」すなわち正しさとも関係しています。主イエスがここで語られている「義」とは、この地上において律法を守り、生活の中で実践することと結びついています。この当時、律法を守ることの大切さを強調し、それを教え、自らも日常生活の中で実践しようとしていたのは、律法学者とファリサイ派の人々でした。しかし彼らこそが、天の国における偉大な住民なのではありません。主イエスは言われます。「あなたがたの義が彼らの義にまさっていなければ、あなたがたは決して神の国に入ることができない」。律法を守り行うことに熱心な彼ら以上に律法を守り行う者でなければ、天の国に入ることはできないのです。

 ここで考えるべきことは「律法を守る」ことの意味です。天の国において律法を守るとは、神の御心に従うことです。神の御心に従うように律法を守ることが大切です。この神の御心を誰よりも実践されたのが、十字架で自らをおささげになったキリストです。そこには、自らをなげうってでも罪人を見捨てず救われる神の愛が示されています。この愛において、律法は完成します。なぜなら律法は、ご自分の民を愛してやまない神の御心だからです。このことは、「義」においても同様です。聖書における義とは、他者との正しい関係を指す言葉です。愛の思いの中で律法を守ることで、隣人との正しい愛の関係の中に生きること。これこそ主イエスの語っておられる義の姿です。しかし律法学者やファリサイ派の人々に、愛は決定的に不足していました。彼らにとって律法とは、自分の優秀さを主張し、自分より不真面目な誰かを責めるための道具でしかありませんでした。それは愛の神の御心である律法を守ることからは遠く離れています。彼らの愛のなさの問題は、無律法主義にも当てはまります。堅苦しい律法などもはや必要ないと主張する人々の心にあるのは、他者に煩わされることなく自分の好きなように生きたいという思いです。そこには他者への愛もなければ、他者との正しい関係を示す義もありません。だからこそ主イエスは、律法を否定しようとする人々もまた戒められるのです。

 

 主なる神が主イエスキリストをとおしてお示しになった愛のまなざしのなかで律法を守り、そうするように教える者こそが、天の国の民の姿です。主イエスは、この地上の生涯において律法を守って生きることを求めておられます。しかし、この地上において律法を実践して生きるためには、実際的な困難がいくつもあります。例えば、性的マイノリティや人工妊娠中絶の是非が議論になっています。これらが聖書の律法に適うか否か、聖書から慎重に学ぶ必要があります。しかしどのような立場に立つのであれ、そこに他者への愛があるかが必ず問われます。わたしたちは聖書の御言葉を、愛の欠けたまま用いがちです。律法とは、神が与えてくださった愛し方マニュアルです。その模範が、十字架の主イエスキリストです。律法をとおして与えられた神の愛の中で、わたしたちはこの地上を生きていくのです。