2024年6月9日礼拝説教「怒りから和解へ」

聖書箇所:マタイによる福音書5章21~26節

怒りから和解へ

 

 キリストは、聖書に記された神の律法を完成するために世に来られました。そのキリストが、愛に基づいて、罪人のために十字架において自らをおささげになりました。その愛によって、律法を完成されたのです。そしてキリストは、自らに従おうとする人々にも愛に基づいて正しく律法を理解し、実践するようにお命じになりました。では具体的に、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか、あるいは何をしてはいけないのでしょうか。それが今日の箇所から、教えられていきます。

 今日の箇所でまず取りあげられる律法が、十戒の第六戒「殺してはならない」です(21節)。この律法の教えとして昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられています。この教えをあなたがたも聞いていると、主イエスは周囲の人々に語りかけておられます。これが当時の一般的な律法理解でした。しかし主イエスは、この戒めをより厳格に受け取ることを求めておられます(22節)。第六戒だけではありません。律法全体、そして聖書の御言葉全体を、主イエスは大変厳格に理解し実践するように命じておられます。そしてこの厳格さを前にして誰もがおののき、圧倒されるのです。それゆえ22節の主の言葉を、実現可能な形で理解しようとする取り組みが教会の歴史のなかでなされてきました。たとえば22節の「兄弟に腹を立てる者は誰でも」の前に「理由なく」という言葉が付加された聖書の写本がいくつも発見されています。厳格な主イエスの御言葉を、なんとか実行可能な仕方で理解しようとした努力の結果と言えます。しかしそれは、主イエスの思いからは外れたものでありましょう。まずもって22節の主イエスの言葉の意図を考える必要があります。それは「してはならない」という側面からの律法理解の限界をお示しになることです。「してはならない」という律法理解は、いとも簡単に「しなければよい」という理解へと変質します。それはいわば、違反か否かの間に境界線を引こうとする律法理解です。聖書に「理由なく」という言葉を付け加える企ても、まさにそれに当てはまります。それは結局、「境界線を踏み越えなければ、自分の好きなようにしてよい」という律法理解に至ります。このような愛のない律法理解を、主イエスは拒否されます。このような律法理解は、愛を望まれる主なる神の目から見て、火の地獄の罰に値するほど御心から遠く離れたものなのです。

 そのうえで主イエスは、この戒めを積極的な側面から理解するように促されます(23,24節)。すなわち「してはならない」という律法理解から、「自分からする」という律法理解です。ここで主イエスは、「神への礼拝」と「人との和解」について教えておられます。皆さんなら、神の事柄と人の事柄のどちらを優先しますか。信仰者であれば、神を優先するのが自然でしょう。しかし主イエスは、神礼拝の前にまず人との和解を行えと教えておられます。もちろん神礼拝をないがしろにしてはなりません。しかしわたしたちはしばしば、神礼拝を言い訳にして、人との和解、さらには人を愛することを後回しがちです。そのようなわたしたちの愛のない姿を、主イエスは鋭く指摘されます。あなたが心の中で腹を立てている人のところに、まずあなたが行って和解し、愛の関係を結びなおすこと。これこそ「殺してはならない」という戒めを与えられた神の御心です。続く25節からは、新たな場面が語られます。自分を訴える人とは、いわば敵です。その相手と「早く」和解せよと、主イエスは教えておられます。ここでの強調点は、時の切迫性です。後で、相手が謝罪してから和解すればいいのではありません。今、このとき、和解に向けて行動を起こすようにと、主イエスは促されます。和解可能な時間は限られているからです。その期限が過ぎてしまえば、牢に投げ込まれ、最後の一クァドランスを返すまで決してそこから出ることはできません。この記述は、終末の裁きを示しています。和解において神の憐れみに期待してはならないのです。もちろん和解できないわたしたちをも、キリストの十字架のゆえに神は救い出してくださるでしょう。しかしそれに期待して、和解しなくてもいいや、と考えることは聖書に反する誤りです。

 わたしたちは、律法をとおして愛の神の御心に直面することになります。まず神が、キリストの十字架によって罪に死ぬべきわたしたちを殺すことなく救い出してくださいました。その愛の神が、わたしたちにも互いに愛しあって生きてほしいと願っておられます。わたしたちが死ぬことなく平和に生きてほしいからです。この神の愛の御心を前にして、「殺してないから大丈夫」「理由さえあれば、腹を立ててもいい」と境界線を引いて生きることなどできないはずです。愛の神の御心の前に立つとき、わたしたちはたとえ不完全であっても、欠けがあっても、殺すことのない和解への生き方へと一歩踏み出すのです。これこそまさに「殺してはならない」という律法をとおして、神がわたしたちに望んでおられることです。

 

 ところで、どうしても赦すことができない人がいる方もおられるでしょう。そのような方は天国に入れないということは、決してありません。主イエスが十字架についてくださったからです。しかし、赦せない人をそのまま憎み続ければいい、とも申しません。主なる神が、憎まないではいられない状態からわたしたちが解放されることを望んでおられるからです。ぜひともこの神の願いを、忘れないでいただきたいのです。罪人であるわたしたちは誰しも敵を作り、誰かを憎み、それによって自らの正義を確保しようとする者なのです。律法を与えてくださった愛の神は、わたしたちがそこから解放されることを望んでおられます。そのための一歩を、愛し合うための一歩を、ここにいる兄弟姉妹と共に踏み出していこうではありませんか。