2024年6月16日礼拝説教「つまずきを取り除け」

聖書箇所:マタイによる福音書5章27~30節

つまずきを取り除け

 

 律法を完成するお方であられるキリストが今回取りあげられるのは、十戒の第七戒「姦淫してはならない」です。姦淫とは、辞書によれば「倫理に背いた肉体関係」です。主イエスは特に結婚関係に抵触するような姦淫を中心に教えておられます。27節で主イエスが「あなたがたも聞いているとおり」と語られているように、この戒めは主イエスの周りにいた人々にとってなじみ深い戒めでした。それは神の民だけではありません。現代でも、有名な方が不倫した際には社会から大変厳しい目が向けられます。その点で、姦淫してはならないという戒めは、現代の一般社会においても、つまりキリスト者でない人々にとっても受け入れられている面があります。しかし山上の説教は、あくまで主イエスに従おうとする人々に語られた言葉です。その点で、一般的な道徳とは一線を画しています。では御自身に従う人々に対して、主イエスはこの戒めをどのように教えられるのでしょうか。

 主イエスはこの戒めに対しても、前回の箇所と同様に、一般社会において受け入れられている共通認識よりもはるかに厳格な理解を持っておられます。その厳格さとは、姦淫の禁止を行動だけでなく心の領域まで拡大した点にあります。しかし面白いことに、前回の「殺してはならない」という戒めとは違い、この「姦淫してはならない」という戒めに対しては主イエスの言葉よりもさらに厳格に、女性との接触をすべて禁じるような禁欲主義的に理解する人々がいました。しかし性欲そのものは、本来は神が与えられた良いものです(創世記1:28参照)。主イエスが問題にしておられるのは性欲ではなく、他人の妻との関係において表面化する愛のなさです。「みだらな思い」は直訳すると「彼女を欲しがるために」という意味です。十戒の第十戒に、隣人の家を欲してはならない、とあります。その「欲する」と同じ言葉です。つまり自分の欲望を満たすために、他人の妻、さらには他者の体を欲することです。それは他者の体を、自らの欲望を満たすための道具、あるいは搾取の対象として見ることに他なりません。それは神がわたしたちに望んでおられる愛とは対極にあります。姦淫やみだらな行いの問題点は、この愛のなさにあります。主イエスがご指摘されるように、まさにわたしたちひとりひとりの心に愛があるかが問われています。

 冒頭、現代社会は不倫に厳しい目を向けるとお話ししました。一方で、現代社会は性に寛容な側面もあります。その問題点が、まさにここにあります。他者の体を奪い、自らの欲望のために搾取することが、性の寛容さによって容認されています。それゆえに心も体も傷ついている人々がたくさんいます。反対に、禁欲主義にも問題があります。ことさらに女性を遠ざけることを強いる禁欲主義は、女性が性的搾取の対象であることが前提となっています。いずれの立場も、律法において最も大切な愛の視点を失っています。それでは「姦淫」におけるつまずきを、避けることはできません。

 このつまずきに対して、主イエスは29節と30節で驚くべき教えを弟子たちに語っておられます。自らの欲望のために他者を奪うことへとわたしたちを誘うつまずきを、徹底的に切り捨てよと、主は命じられています。それは、終末における神の裁きに備えるためです。もちろん主イエスが本当に右目をえぐり出し、実際に右手を切り落とすことを求めておられるのではありません。この御言葉があるからと言って、実際に右目をえぐり出したり右手を切り落としたりした人はおそらくいないでしょう。

 大切なことは、この言葉を語られた主イエスの意図です。まずもってなぜ、左ではなく右目と右手なのでしょうか。それは大半の人々にとって、左よりも右の方が大切だからです。調べてみましたら約9割の方が右利きで、約4分の3の方の利き目は右だそうです。右目と右手は、その人の体にとって価値ある部位の象徴です。自らをつまずかせないために、すなわち他者の体を奪わないために、自らの体の価値あるものを手放すことがときに必要であることを主イエスは教えておられます。これが愛に基づく主イエスの律法理解です。そしてそれはそのまま、主イエスが十字架において自らの大切な体を捧げられたことへとつながっていきます。ここにこそ、「姦淫してはならない」という律法の愛の実践があります。

 

 この主イエスの律法の教えは、そのまま主イエスの宣べ伝えておられる天の国の姿でもあります。「姦淫してはならない」という律法を通して天の国の姿を見るならば、天の国とは、自らの欲望のために隣人の体を奪うのではなく、かえって自らの価値ある体を隣人のために用いる場所といえます。自らの体で苦しむ誰かのところに行って話を聞く、ですとか、自らの体を使って誰かの救いのために奉仕をする、など、自らの体を誰かを愛するために用いる方法はいろいろあります。コロナ禍以降、オンラインが普及するなかで、体の存在価値が見落とされている気がしてなりません。そのような中だからこそ、「姦淫してはならない」という戒めをとおして体の尊さ、体の大切さを改めて確認したいのです。人の心と体は連動しています。体に対する愛のなさは、心にも必ず現れます。それが今日の箇所で主イエスが指摘しておられることでしょう。愛において、心と体はつながっています。心においてだけでなく、体においても愛が実現する場所。それが主イエスの宣べ伝えられる天の国の姿であり、主イエスに従う人々が集まる教会という場所です。キリストの十字架によって、まさにそのような心も体も愛しあう関係にわたしたちは結ばれました。他者の体を奪うことに寛容なこの世界の中で、それとは反対に、自らの体を与え用いて誰かを愛する生き方へと歩み出してまいろうではありませんか。