2024年6月23日礼拝説教「結婚の尊さ」

聖書箇所:マタイによる福音書5章31~32節

結婚の尊さ

 

 今日の箇所では、離縁すなわち離婚について取り上げられます。この話題は、直前の「姦淫してはならない」という戒めに関連して教えられています。「姦淫してはならない」という戒めの、一つの実例と言えるでしょう。主イエスがここで離婚を特にとりあげられたことは、離婚とその前提である結婚に関して看過できない状況が、この当時の社会にあったということです。どのような状況のなかで主イエスはこの言葉を語られ、主イエスがどのような願いを人々に持っておられたのでしょうか。これらの観点から、この内容を理解してまいりましょう。

 今日の箇所の冒頭で、主イエスは離縁状についての教えを引用しておられます。引用元は申命記24章1節以下です。律法においても、結婚した夫婦が離婚する場合が想定されています。今日の箇所において主イエスは、基本線としては離婚の禁止を教えておられます。それでも「不法な結婚でもないのに」と例外をつけておられます。ここでの不法とは、性的な面での不法意味する言葉です。そのようなやむを得ない場合において、主イエスは離婚を認めておられます。聖書も主イエスも、現実を無視した非現実的な理想を人々に押し付ける意図はありません。それゆえにこそ、不法ではない場合の離婚に対して、主イエスは断固として反対されます。

 さきほどお読みしました申命記24章の律法から、どのような場合に離婚が認められるかが議論されてきました。しかし離婚が認められる理由が広かろうが狭かろうが、律法理解の行きつく先は同じです。条件に当てはまりさえすれば離婚できる、条件さえ満たせば離婚してよい、という理解です。そのような理解に基づいて安易な離婚がなされ、それゆえに困窮する女性が、この時代には少なくありませんでした。この背景をふまえるならば、今日の言葉を語られた主イエスの意図が「どのような場合に離婚が認められるか」を示すことにはないことが分かります。やむを得ない場合はあるものの、そのような場合を除いて結婚関係を壊してはならないというのが、主イエスの教えの大原則です。そして32節では、離婚がもたらす二つの罪の結末を示されます。一つ目の結末は、妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる、です。離婚したら、妻であった女性が誘惑にあい罪を犯してしまうかもしれない、といった呑気な状況ではありません。この時代、離婚された女性が独りで生きていくことは極めて困難でした。そのような女性が、なお生きていくために強いられるのが売春です。それが姦通の罪だと分かっていながら、生きていくために売春せざるを得ないのです。妻がそうなることが分かっていながら、離縁状を渡して簡単に離婚する。この罪深さ、愛のなさを、主イエスは問題にしておられます。離婚がもたらすもう一つの結末。それは離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる、です。これは決して再婚の禁止を意図したものではありません。主イエスが離婚を認めておられるのは、性的な関係に端を発する不法が行われた場合です。つまりは不倫です。不倫によって離婚された女性を妻にしようとする人。それは、不倫相手かそれに準ずる立場の人でしょう。その人の目的は、他人の妻を自らのものとすることにあります。これは先週学びました教えに真っ向から違反することになります。いずれの場合においても、離婚をめぐる愛のなさが、罪という神から離れた状態へと人を貶め、そこで苦しみあえぐ人々を生み出していたのです。律法を与えてくださった愛の神は、わたしたち神の民に、そのような愛のない悲惨のなかで生きてほしくないのです。

 主イエスが離婚をとおして指摘される愛のない人の姿から、反対に結婚を定められた神の愛を学びたいのです。さきほどの申命記における、神の意図は結婚相手を愛し、大切にすることにあります(申命記24:5)。ここでいう愛とは、十字架のキリストに示された神の愛です。それは相手に欠けがあろうとも、気に入らないところがあろうとも、そして罪があろうとも、それでも相手の幸せを願って愛しぬく愛です。その愛が最も現れるべき結婚が、「離縁状さえ渡せば離婚してよい」という愛のない理解によって軽んじられていました。相手がどうなろうと、離縁状を渡す側からすれば関係ありません。それは神の愛で愛し合う関係として結婚を定められた神の御心からは、遠く離れたものです。このような結婚の軽視は、この聖書の時代だけのものでしょうか。現代においても、結婚が「わたしの益」のための関係になり下がっているように思えてなりません。結婚という最も愛し合うべき関係ですら自らの益のための関係になっているならば、他の関係はなおさら与える関係ではなく奪う関係になってしまうでしょう。そのなかでは、安心して平和に生きることなどできません。

 

 だからこそ、すべての愛の関係の土台である結婚を、神は重んじられます。単に相手が気に入らないという安易な理由で関係を壊すような離婚を、主イエスは厳しく戒められます。主イエスは決して、何が離婚に当たるかを教えようとしているのではありません。まして、相手から暴力や不法な扱いを受け続けていても、離婚してはならないと突き放しているわけでもありません。愛のないわたしたちが、それでも愛の関係を結び続けることを主イエスは求め、また願っておられるのです。その意味で、互いに愛し合う結婚関係は戦いです。それは本来愛のない人間どうしが、愛し合うことを求められる関係だからです。主イエスは十字架において、まさに命を懸けて戦って、わたしたちを愛しぬいてくださいました。この愛を受けたわたしたちもまた、自らの益のための関係ではなく、相手のために自らをささげる愛の関係へと導かれていくのです。その関係の中心が、神の定められた結婚なのです。