聖書箇所:マタイによる福音書5章33~37節
真実なる誓い
今日の箇所では誓いについて教えられます。誓いを守ることは、信頼の根幹です。いい加減な誓いをして、それが守られないならば人間関係は壊れてしまい、社会秩序を維持することは困難です。旧約聖書においても、安易な誓いや誓願をしないことが教えられています(レビ19:12、民数30:3、申命23:22)。それは主なる神の名が軽んじられないためです。それをふまえて主イエスは33節で、当時一般的に教えられていた誓いに対する教えを引用されます。主イエスの周りにいる人びとも、その教えを当たり前のように受け入れていたと考えられます。軽々しく約束をしてはならないという点だけに焦点を当てるならば、大半の人々が「そのとおりだ」と同意するでしょう。それに対して主イエスは、一切誓いを立ててはならないと命じられます。また天と地とエルサレムと自分の頭にかけて誓うことを、主イエスは一つ一つ挙げて禁じられています。ここで挙げられているのは、主の名に対して誓うことを避けるために、一般的に用いられていたものです。主の名を汚さないため、主の名に誓う代わりに、天や地にかけて誓うことが行われていました。それらを含めた一切の誓いをしてはならないと、主イエスは命じられます。そして主イエスは37節で、あなたがたは「然り、然り」「否、否」と言いなさいと言われます。確実に然りと肯定できることに対して然り、確実に否と否定できることに対して否とだけ語るように、ということです。
主イエスのこのご命令の理解について、歴史上様々になされてきました。文字通り、一切の誓いをしてはならないと理解した人々がおりました。それに対して、必ずしもすべての誓いが禁じられているわけではないという反論がなされました。カルヴァンもまた、愛に基づく誓いは禁じられていないという立場をとっています。わたしたちもまた、洗礼や信仰告白などの場面で神に対して誓約をします。最初に触れた通り、約束は社会秩序を維持するうえでも必要です。このような実践を否定するために、主イエスが一切の誓いを禁じたとは思えません。
では主イエスの意図はどこにあるのでしょうか。まずは、誓いを果たし得ない人の姿を示すことにあります。髪の毛一本ですら白くも黒くもできない人間には、誓いをその通りに実現する力がそもそもありません。誓いに対する人間の限界は、使徒ペトロが主イエスを三度否定する場面に現れています(26:72)。ここには、偽りの誓いをして自らを守ろうとするペトロの姿が記されています。主イエスの一番弟子であるペトロすらこの程度なのです。ならば、わたしたちの誓いに対する不忠実さはなおさらのことでしょう。そしてここから、誓いに対して不忠実な人間とは対照的な、誓ったことに対して徹底的に忠実であられる神のお姿が見えてまいります。聖書においては神もまた誓いをなされる場面が記されています。ご自身の民を救うとの神の契約もまた、神がなしてくださった誓いと言えます。神はその誓いを、独り子キリストを十字架にかけてまで果たしてくださいました。それほどまでに誓いを守ることに忠実であられるのが、聖書に示されたわたしたちの神です。
この後わたしたちは聖餐式に与ります。主イエスはぶどう酒に示されるご自身の血を、契約の血と言われています。この血に与る者の罪を赦し、この血に与る者を救う。この神の誓いのしるしが、聖餐式のぶどう酒です。それにあずかるわたしたちに対しても、神は誓いを果たしてくださいます。たとえわたしたちが罪人であろうと、たとえわたしたちが誓いに不忠実な者であっても、神は誓い果たしてくださるお方です。だからこそ、この血に与るわたしたちの救いがゆらぐことはありません。
そして今日の戒めは、これまで語られてきた戒めと同様に、天の国の姿を示すという側面からも理解することも大切です。主イエスの宣べ伝えておられた天の国とは、神の御心が実現する場所であることはすでに繰り返し語ってきました。今日の教えで言うならば、誓いが必ず果たされるのが神の国であると言えます。もし誓いが必ず果たされるならば、もはや誓いそのものが必要ありません。語られ約束された言葉は、必ず果たされるからです。ですから一切の誓いを禁じられた主イエスは、誓いが不要なほどに言葉が重んじられ、守られ、実現する天の国の姿を指し示しておられます。
それに対して現代社会はどうでしょうか。偽りの誓い、偽りの言葉で溢れているのではないでしょうか。都合が悪くなれば撤回されてしまう政治家の言葉の軽さを思わずにはいられません。インターネットにおける言葉の軽さも深刻です。間違っていることが、平気で真実であるかのように書かれています。そしてわたしたち自身もまた、主イエスを誓って知らないと言ったペトロと同様、自らの語った言葉や誓いに対して不忠実な者です。誓いが不要なほどに律法が完成された神の国とはほどとおい現実が、世においても、わたしたち自身においてもあります。この世の現実を前にするとき、誓いはなお必要な面があるでしょう。わたしたちが神の御前に誓う行為は、誓いを軽んじてしまうわたしたちにとって必要なことです。しかしそのなかで、十字架に示された神の救いの約束は、この偽りがあふれた世においても必ず果たされます。神が誓いを守られるお方だからです。神の約束に対する真実さにより頼んで生きること。それがわたしたち神の民なのです。わたしたち人間の言葉や行動は、現実問題として不確かです。しかし真実なる神の言葉により頼みながら、聖餐の恵みに共に与ろうではありませんか。真実なる神の恵みに与るなかで、わたしたちの言葉や行動もまた、誓う必要がないほどに偽りない真実なものへと変えられていくのです。この真実な言葉、真実な誓いにおいてこそ、十字架のキリストの救いは実現していくのです。