2024年7月14日礼拝説教「復讐を乗りこえよ」

聖書箇所:マタイによる福音書5章38~42節

復讐を乗りこえよ

 

 本日の箇所では、復讐について取りあげられます。目には目を、歯には歯を。これはハンムラビ法典の一節として有名です。同様の内容が、旧約聖書の律法においても記されています(出エジプト21:24、レビ24:20、申命記19:21)。これらの旧約聖書の律法の目的は、過度な復讐を制限することにあります。自らになされたことを超えるような過剰な復讐を企てて報復の連鎖を生んでしまうのが、聖書の示す人間の姿です。例えば、創世記4:24のレメクが代表的です。この復讐の連鎖を断ち切るところに、律法を与えられた神の思いがあります。

 この戒めを引用しつつ、主イエスは悪人に手向かってはならないと命じられます。この主イエスの言葉もまた、律法の目的に沿って、神の御心として理解する必要があります。すなわち復讐する人々を責めるためのものではなく、神の御心が実現する天の国での生き方を示したものです。それを踏まえて、まずは主イエスの言われる「悪人」とは誰かを考えてみましょう。この言葉は37節の「悪い者」、あるいは43節以降の「敵」とつながっています。すなわち神の御心から離れて敵対する人々です。このような人々が、主に従う人々を抑圧する状況を、主イエスは想定されています。こういったことは、歴史上幾度となく起こり続けています。現在でも形を変えて、主の御心の外側にいる人々が、主に従う人々を圧迫するようなことは起こっています。ここに集められたわたしたちの多くもまた、主を信じる者としてこの場所にいます。そのようなわたしたちが、そうではない人々から不当な仕打ちを受けるとき、その状況をわたしたちはどう理解するでしょうか。悪がなされた。神に逆らう力が働いている。そう理解すると思うのです。サタンの仕業だと理解する方々もいるかもしれません。このように神に逆らう力が働いていると理解するからこそ、それをなした悪人に手向かい、正義の鉄槌を下して悪を滅ぼそうとするは自然なことです。それが、この箇所で語られている復讐の中心にあることです。そして主イエスは、それをよしとはされません。むしろ甘んじて悪を受け、過剰なまでに不当な仕打ちを身に受けるようにと言われます(39~41節)。

 これは決して、悪に対して抗議するなとか、自らの身を守るな、という意図ではありません。主イエスの意図は、どこまでも復讐の禁止にあります。自ら正義の鉄槌を下すのではなく、かえって悪を受けたままでいる。それが、天の国の一員とされた者の生き方です。そして誰よりも主イエスご自身が、この戒めを実践されました。マタイ26:65~68には、主イエスが裁判において不当な暴行を受けておられる場面が記されています。主イエスは神であられるお方です。復讐する力も、正義の鉄槌を下す権威もお持ちです。それにもかかわらす、悪人に手向かうことなく十字架にかかられました。主イエスご自身が、復讐の連鎖を断ち切るという御心に生きられました。このお方に従おうとするとき、わたしたちは、復讐を禁じた主イエスのご命令と、復讐を望む自らの思いの間で葛藤し、悩むことになります。ここにこそ、主イエスの示された神の意図があります。もしわたしたちが、このような葛藤や悩みを拒否するならば、ただただ自らの思いに従って復讐に身を投じるしかありません。それがどのような悲惨を生むかは、現在の国際情勢を見れば火を見るよりも明らかです。悩み葛藤することをとおして、このような悲惨から解放されるところに、神の律法があり天の国があるのです。

 ところで42節では、41節までとは趣旨が異なるように見える命令が記されています。これは自らが強い立場に立った際の命令です。そのとき、求める者には与え、借りようとする者に背を向けるなと、主イエスは命じられます。そうしなければ、自分が復讐される側になってしまうからです。今日の御言葉を見るときにわたしたちは、自分が不当な仕打ちを受けて復讐する側であることを前提に理解するのではないでしょうか。この前提が正しいかは考える必要があります。十字架の裁判の際に不当に主イエスを打ったのは、聖書を知らない人々ではありません。大祭司と共にいた人々、つまり聖書をよく読み、自分こそが聖書を正しく理解し、自分こそが神の側についていると信じて疑わなかった人々です。その人々が、神を冒涜する悪人に対する正義の鉄槌として、主イエスを打ったのです。この人々の姿は、神に逆らう悪人に正義の鉄槌を下したいと願うわたしたちの姿そのものです。自分こそが正義で、自らが神の側についている。わたしたちはどこかで、そのような前提のもとに生きています。このことを信じて疑わないわたしたちが、主イエスを打ったのです。そのようなわたしたちに、主イエスは復讐をされることなく、自らを打ったものの罪の赦しを祈り願いながら十字架にかかられました。それゆえに、わたしたちは救われたのです。

 

 復讐とは、すなわち正義の鉄槌です。それゆえ復讐とは、自らの正しさを信じて疑わないときにしかできません。しかし罪がない正しい者などいないというのが、聖書の根本的な教えです(一ヨハネ1:8など)。誰もが、自らの正義に酔いしれながら他者を、そして主イエスを打ってしまう悪人です。主イエスは、自らが復讐をしないことをとおして、復讐の連鎖に身を投じてしまうわたしたちを招いておられます。もうそこから離れよ、と。この主の愛のまなざしのなかで、悪人に手向かってはならないと命じられた主の御命令を受け取ってまいりましょう。そして悪人であるわたしたちに復讐をされなかった主イエスに従い、天の国のメンバーとして歩みだしてまいりましょう。このように生きることをとおして、復讐が復讐を生むこの世界に、主の平和を携えていこうではありませんか。