聖書箇所:創世記34章1~31節
辱めと復讐の渦中で
神が約束を実現してくださり、ヤコブは約束の地へ帰って来ることができました。このときの彼の状況をわたしたちに置き換えるならば、神の約束に基づいて神の御許へと帰ってきた状況です。端的に言ってしまえば、救われた状態と言ってよいでしょう。キリスト教において、救いは重要なテーマのひとつです。しかし救われたら、それで人生が終わるわけではありません。それはヤコブにとっても同じです。約束の地カナンで、ヤコブはこれから生きていかなければなりません。救われたあとの生活があります。それがいったいどのようなものであったのかが、今日の箇所で記されています。
カナンに帰ることができたヤコブの生活は、決してバラ色ではありませんでした。娘のディナが、シケムによって辱められる事件が発生します。目を覆いたくなるような悲惨が、救われてもなおあります。ただ、現代の常識に基づく性犯罪と同一視して、今日の箇所を見るべきではありません。当時の常識において、この出来事が意味するところを見つめる必要があります。シケムは、完全なる悪意でディナを辱めたわけではありません。彼は彼女を愛していました。事後ではありますが、ヤコブに結婚を申し込みます。これに対するヤコブの反応は記されていません。あえて息子たちに言わなかったヤコブの行動を見るに、なんとか穏便に済ませようとした意図が伺えます。またディナ自身がどう思っていたかも記されていません。それは、女性のことであっても男性が前面に立って解決するこの当時の常識に基づいています。良し悪しは別にして、当時はそれが当たり前でした。
7節になると、ヤコブの息子たちもこの事件を知ります。彼らは互いに嘆き、激しく憤ります。彼らの怒りの理由として、31節で「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」と語られます。この至極当たり前の理由が、34章の最後にならなければ語られませんでした。おそらくこの動機は、父から行動を責められた息子たち言い訳に過ぎません。息子たちが憤った理由の中心は、7節の「イスラエルに対して恥ずべきことを行ったからである」の部分です。聖書において姦淫は、イスラエルの中で恥ずべきことです(申命22:21など)。それが、神の民でないシケムから神の民であるディナになされました。このことに対する宗教的な義憤が、息子たちの憤りの中心にありました。このような義憤は、神によって救われた者であるがゆえに沸き起こる感情です。
ところでシケムとその父ハモルはヤコブの一家、すなわち神の民に対して友好的でした。彼らが友好的であることを利用して、ヤコブの息子たちは復讐を企てます。そのために用いられたのが割礼でした。割礼は、本来は神の民であることの徴として神が定められたものです(創世17章)。ヤコブの息子たちはその割礼を、姻戚関係を結ぶために必要ということで土地の人々に求めました。土地の人々はそれを受け入れ、男性はすべて割礼を受けることとなりました(24節)。しかし彼らが割礼を受ける動機はどこまでも、経済的な利益のためでした(23節)。利益を得るために御言葉を利用する。そのような人々の姿を見ることができます。一方ヤコブの息子たちは、土地の人々が割礼をうけるやいなや約束を反故にします。そして彼らを殺し、財産を奪い取り、女も子供も捕虜にしました。ディナが辱められたことに対する復讐としては、明らかに過剰です。彼ら自身は、悪に対する正義の鉄槌のつもりだったことでしょう。しかしその行動の背後には、奪い取って自らが豊かになろうとする彼ら自身の欲望が見え隠れします。
ヤコブの息子たちにしても、土地の人たちにしても、割礼を定められた神の思いなど考えもしません。聖書の御言葉を人の都合によって用いることの悲惨が、今日の箇所には記されています。その結果が、30節のヤコブの言葉です。ヤコブはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者となってしまいました。神が与えてくださったカナンの土地での滞在に、不穏な要素を抱えることになります。そして最終的にヤコブの子孫たちは、バビロン捕囚によりこの土地を追われることとなります。せっかく神が帰らせてくださった土地を、彼らは失うことになるのです。そのきっかけが、義憤に駆られながら御言葉を自らの利益のために用いた、今日のヤコブの息子たちの行動なのです。
今日の箇所で決定的に欠如しているのは、神の存在です。割礼という聖書の御言葉は引用されていますが、それを定められた神の思いには、誰も目を向けようとしません。その結果、ディナが辱められるという悲惨に対して、さらに大きな悲惨が上塗りされていくことになったのです。神の約束が実現し、救いの恵みをいただいた。これは素晴らしい出来事です。それでもなお、わたしたち人間の罪の現実は変わりません。神に救われた者であるがゆえに、神のためを思って行動することは素晴らしいことです。しかし一方でそれは、純粋な信仰心ではなく、自らの益を求める思いとの混合物です。それが、救われてもなお罪人であるわたしたちの現実です。だからこそ、救われたわたしたちにはなおキリストの十字架が必要なのです。救われてもなお、わたしたちは罪人だからです。最も悲惨なことは、わたしたちが罪人である事実そのものではなく、自らが罪人であることを忘れることです。自らが罪人であることを忘れ、自らが神の代理であるかのようにふるまうところに悲惨は起こります。救われた信仰者であるがゆえにこそ、キリストの十字架が必要です。こうして十字架を求めるときにわたしたちは、今日記されているような罪の悲惨から解放されるのです。それこそが、キリストの十字架によって救われたわたしたちの歩む道なのです。