2024年8月4日礼拝説教「誰から報いを得るのか」

 

聖書箇所:マタイによる福音書6章1~4節

誰から報いを得るのか

 

 本日の御言葉のテーマは「報い」、すなわち報酬です。報酬は、人間にとって活動の原動力です。聖書の話をするときには、見返りを求めず神に仕えなさい、と言われることもあるのですが、それは神からの報酬を一切拒否することではありません。自分勝手な報いを求めるな、という意味です。わたしたちの信じる神は、ブラック企業の経営者ではありません。わたしたちは神からの報酬に期待して神に仕えてよいのです。それは健全なことです。ただしここで問題になってくるのは、報酬の求め方です。これがまさに、今日の御言葉のテーマです。

 主イエスは周囲の人々に対し、見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさいと、警告しておられます(1節)。「善行」は、「正しいこと」という意味の言葉です。それは道徳的に良いことではなく、宗教的な基準で正しいことです。わたしたちに置き換えてみれば、聖書に従って神に仕える行為を指します。その代表例が、今日取り上げられる「施し」であり、また次の箇所で取り上げられる「祈り」です。これらの行為をなす際に、見てもらおうとして、人の前で善行しないよう注意せよと、主イエスはおっしゃられます。問題は、人の前で行うという「形式」ではなく「目的」です。人々に見て貰うために、善行をするな、神に仕えるな。これが主イエスの命じておられることです。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないからです。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちがしているようにしてはならない、と2節の言葉が続いていきます。この「偽善者たち」という言葉は、ファリサイ派や律法学者たちを意図しています。彼らは時間やお金などたくさんの犠牲を払って神に仕えていた人々です。それゆえ彼らは尊敬されていました。しかしその彼らを、主イエスは偽善者たち、すなわち偽の善人だと言われます。

 彼らが「偽」なのがまさに「目的」の部分です。その目的とは、「人からほめられようと」(2節)の部分です。彼らは、人々から褒められるために神に仕えていました。そのために彼らは、会堂や街角、すなわち礼拝の場や公共の場で好んで善行をしたのでした。この目的のために、善行をする際には自分の前でラッパを吹き鳴らしたとまで言われています。これが実際に行われていたか、何かの比喩かは定かではありません。けれども、主イエスの意図は明確です。神の栄光を称える行為をしながら、実際には自らが人々から栄光を受けること。それが、ファリサイ派や律法学者たちの神に仕える目的でした。主イエスの周りにいた人々が彼らを立派な信仰者だと思っていた事実そのものが、彼らの目的が達成されていることを意味します。そしてこの意味で、彼はすでに報いを受けていると、主イエスは宣言されます。

 だからこそ、あなたがたはこの偽善者たちのようであってはならないと主イエスは言われます。自分の右手と左手は、常に近い位置にあります。その位置ですら知られないほどに、あなたの施しの行為、すなわち神に仕える義の業を人目につかせるなと、主イエスはおっしゃられます。そうすれば、隠れたところを見ておられる父が、あなたに報いてくださるからです。神が隠れたところを見ておられるお方だからこそ、神からの報いを望む者は自らの善行を人前にひけらかすことをしません。反対に、自らの善行を人目につかせようとする人は、神からの報いではなく別の報いを求めているということです。つまり偽善者たちは、神からの報いを求めているけれどもそれを得られない人々なのではありません。彼らが求めているのは最初から、神からの報いではなく、人々から得られる自らの栄光なのです。ですから主イエスの言葉を聞く者が究極的に問われているのは、「あなたは誰からの報いを求めるか」というこの一点に尽きます。

 ところで神からの報いと人からの報いは、いつ得られるか、にも違いがああります。主イエスは偽善者たちを指して「彼らはすでに報いを受けている」と言われています。それに対して、4節最後の「父が、あたなに報いてくださる」という文章は未来形です。神からの報いは、将来神が与えてくださることを信じて待つ必要があります。信じて待つということが、聖書の語る信仰の一つの姿なのです。偽善者たちは、この意味での信仰をもつことができませんでした。彼らは、将来報いを与えてくださる神に信頼できなかったからこそ、今すぐ得られる人からの報いを求めたのです。彼らは常識外れの悪人ではなく、人一倍熱心に神に仕えるべく行動していた人々です。神に熱心に仕えようとし、神のために沢山の犠牲を払えば払うほど、偽善者になる危険が高まります。だから、ほどほどの信仰生活を送りましょう、と言いたいわけではありません。繰り返しになりますが、今日の箇所で主イエスがわたしたちに問われているのは「誰からの報いを求めるか」です。そしてまさにこのことが、わたしたちの生き方、ひいては生きる目的に直結します。

 

 人からの報いを求めて生きる限り、わたしたちは満たされることはありません。報いを与える人もまた、気まぐれな罪人だからです。それゆえ人からの報いを求めて生きると、認められないことに不満を持ちながら生きることになります。だからこそ主イエスは、人ではなく父なる神に報いを求めよと、この神の報いに期待して生きよと、招いておられます。このお方こそ、わたしたちのために独り子をお与えくださったほどに、わたしたちを愛し、満たしてくださるお方だからです。この神の報いに期待して、そして報いてくださる神に信頼して、仕えてまいろうではありませんか。この神への期待のなかに生きるときにこそわたしたちは、まことに満ち足りた人生を歩むことができるのです。