2024年9月1日礼拝説教「キリストが教える祈り」

 

聖書箇所:マタイによる福音書6章9~15節

キリストが教える祈り

 

 本日は主イエスが弟子たちにお教えになられた主の祈りの御言葉に聞きます。主の祈りはわたしたちにとって大変なじみ深い祈りです。この祈りをマタイ福音書の連続講解説教の御言葉として聞くことには、大切な意義があります。それはマタイ福音書の流れのなかで主の祈りを再発見することです。マタイ福音書における主の祈りは、山上の説教の中心に位置しています。主の祈りだけが単独で存在しているわけではありません。この流れの中で、主の祈りの言葉に改めて聞いてまいりましょう。

 本日の御言葉の冒頭「だから」という言葉に、すでに8節からの流れが表われています。わたしたちの父なる神は、願う前から、わたしたちに必要なものをご存じであられます。だから、この主の祈りを祈りなさい。そう主イエスは教えておられます。そして原典ギリシア語におけるこの祈りの最初の言葉は、「父よ」です。これは子供が親しみを込めて父親を呼ぶ「パパ」「お父ちゃん」を意味する言葉だと言われています。つまり主の祈りは、恐ろしい神に対する祈りではなく、罪のあるわたしたちをなおも受け入れて、必要を満たしてくださる幼子の父としての神に対する祈りです。

 では神の子であるわたしたちが、お父ちゃんである神に祈るべきことは何でしょうか。大きく分けて、主の祈りの前半9~10節にある神についての祈りと、後半11~13節のわたしたち自身についての二つに分けられます。まずは前半の神についての祈りです。10節最後の「天におけるように地上にも」は「御心が行われますように」に結び付いていますが、前半の祈りすべてにも当てはまります。天においてこれらの祈りはすでに、そして完全に実現しています。しかしわたしたちがいる地上は、そうではありません。それゆえこれらが実現する天の国が、わたしたちの生きているこの地上に来ることを、主の祈りにおいて願い求めるのです。では、その祈りはどのように実現するのでしょか。それは主の祈りを祈るわたしたち自身が、御名を崇め、御国に入り、御心を行うことによってです。従って主の祈りは、祈る者を父なる神に従う行動へと促す祈りです。このことは、これまで山上の説教において主イエスが弟子たちに具体的に律法を教え、その行動を促してきた流れにも表れています。しかしいざ行動せよと言われても、具体的に何をすべきか分からず迷うでしょう。それが示されるのが、主の祈りの後半のわたしたち自身についての祈りです。わたしたち自身についての祈りがかなえられることの中で、神についての祈りも実現していくのです。わたしたち自身についての祈りとしてまず教えられるのが11節です。糧とはパンという言葉であり、今日生きるために必要な物質的な食べ物を指します。ここにいるわたしたちは、このような困窮とは無縁かもしれません。しかしこの祈りは「わたしたち」の祈りとして祈ることが求められています。この地上に今日生きるための食べ物に欠く人々がいるならば、それが満たされるよう、わたしたちは神に祈る必要があります。そのうえで次に祈り求めるのが12節、負い目の赦しです。負い目とは、負債と同時に罪をも意味する言葉です。この内容を主イエスは、14~15節でも改めて語られています。つまりマタイ福音書における主の祈りの中心は、負い目の赦しにこそあることが分かります。思えば山上の説教において主イエスは、復讐してはならない、敵を愛せという戒めをとおして弟子たちに他者を赦すことをお命じになってきました。それはキリストを十字架にかけられるほどに、罪人を赦したいと願われるのがわたしたちのお父ちゃんである神だからです。

 主の祈りは、わたしたちの罪のために十字架にかかられた主イエスキリストの祈りです。それゆえ主の祈りのすべては、「父なる神はキリストをとおして赦す方である」という視点から理解される必要があります。前半で祈り求めた御国とは、キリストの十字架によって罪人の罪を赦される父が治める国です。御心とは、キリストを十字架につけてまで人々の罪を赦そうとなさる神の御心を指します。だからこそ、12節の祈りが実現し、わたしたちが互いに負い目のある人を赦すことをとおして、御国は地上に来て、御心は地上で行われるのです。さらに13節でわたしたちが遭わせないようにと祈る「誘惑」とは他者の罪を赦さない誘惑であり、「悪い者」とは自らの正義を振りかざして他者を赦さない人々です。彼らが語る「もっといい子でいなければ、もっと頑張らなければ、あなたは誰からも許されず愛されない」という言葉に、わたしたちは日々重荷を負わされています。こういった、他者を赦せず、自らが赦されない悲惨からの解放こそ、13節の祈りです。

 ところで11節で日々の糧を求めましたが、わたしたちの周りに今日生きるパンにも事欠く人々がいるのはなぜでしょうか。そこには、困窮の理由をその人の落ち度や罪に求め、その責任を問い、それを赦すことなく滅びるままにするわたしたち自身の罪があります。このわたしたちのすべての罪を担って、主イエスは十字架にかかってくださいました。この恵みに与って赦されたわたしたちが互いに赦しあうことをとおして、今日生きるために必要な糧もまた、すべての人々に与えられていくのです。

 

 結局のところ主の祈りとは、キリストの十字架による罪の赦しが実現することを求め願う祈りです。まず罪人であるわたしたち自身が、この祈りをとおして赦されることを祈り願います。赦しを求めるわたしたちの祈りに、わたしたちのお父ちゃんである神は必ず聞いてくださいます。だからこそ、わたしたち自身も共にこの祈りに生き、他者を赦しながら歩んでいこうではありませんか。そのような場所に神は、キリストの十字架の赦しが実現する御国を来たらせてくださいます。