2024年9月8日礼拝説教「誰に自分を見てもらいたいか」

聖書箇所:マタイによる福音書6章16~18節

誰に自分を見てもらいたいか

 

 先週の箇所で主イエスが教えられた主の祈りは、キリストの十字架による赦しが地上において実現することを求める祈りでした。そのために主の祈りを祈る者は、神の赦しの御心に従って生きることへと促されます。この主の祈りが教えられた後に、神の御心への従い方が教え教えられていきます。そこで最初に取り上げられるのが「断食」です。

 まず聖書において断食がどのように記されているかを見てみましょう。聖書において断食が記されているのは、主に旧約聖書においてです。新約聖書でも断食は記されますが、旧約に比べれば限定的です。そして旧約聖書において断食は、しばしば神への祈りと共に行われました(エステル記4:16など)。このように神にぜひ聞いてほしい事がある状況は、苦しいときであり追い込まれたときです。ですから嘆きの中にある人々が断食する姿もまた、旧約聖書には記されています(サムエル下1:12など)。断食するほどに嘆かなければならない状況に陥るのは、決して好ましいことではありません。しかしそのような状況から、神への切なる祈りが生まれてくるのです。

 今日の御言葉において、主イエスは偽善者が行なっていた断食の姿を挙げておられます。この偽善者とは、人々からは信仰的だと尊敬されていた律法学者やファリサイ派の人々を直接には意図しています。彼らは神に仕えるための行為として断食していました。その際には沈んだ顔つきをし、また顔を見苦しくしていました。彼らのこの実践には、旧約聖書における嘆きのなかでの断食という側面が前面に出ています。しかし彼らがそのようにして断食するのは、人に見てもらうためでした。彼ら自身が心から嘆いているわけではありません。もし、嬉しい状況と悲しい状況を選べるとしたら、迷わず前者を選ぶでしょう。もし、食べ物を食べることができる状況と、空腹に耐える状況を選べるとしたら、やはり前者を選ぶでしょう。しかし偽善者たちは神に従う行為として、本来なら選ぶであろうことを我慢し、自らを見苦しくして断食しました。こうして神のために苦しみに耐え、我慢している人々を見ると、わたしたちはその人を信仰的な人だと感じます。まさにここに、偽善者たちの断食の本当の目的がありました。彼らの断食は、神に従うためではなく、人々から自らの信仰が認められるために行われたものでした。そのために、彼らはあえて人前でみすぼらしい格好をし、自らが断食していることをアピールしていました。実際この偽善者たちは、人々から尊敬されていました。それゆえ彼らはすでに報いを受けていると主イエスは宣言されます。

 そのうえで主イエスは、自らに従おうとする弟子たちに正しい断食の仕方をお示しになられます(17、18節)。断食をするときには、身なりを整えておしゃれをしなさいと主イエスは命じられます。その目的は、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられる父なる神に見てもらうためです。わたしたちの父なる神は、隠れたところにおられ、隠れたところを見ておられる方であることは、これまでの山上の説教において主イエスが繰り返し教えておられることです。ですから、人に見てもらうことを求めつつ、同時に父なる神にも見てもらうことはできません。両者は両立しません。そして周囲の人々から見られるためになされた断食か、それとも父なる神に見ていただき、このお方からの報いを切に祈り求めてなす断食か。その違いは、断食をする姿に如実に現れるのです。主イエスはもちろん、後者の父なる神に見ていただけるような断食をするようにと弟子たちに命じておられます。そのために、断食するときには頭に油をつけ、顔を洗いなさいと命じておられます。こうして主イエスが教えられる断食の姿は、偽善者たちの断食する姿とは対照的です。苦しみを我慢するのではなく、むしろ喜びの姿の中での断食です。それは救われた喜びのなかで神に仕える断食と言えます。もちろん断食である以上、食べることを我慢する面はあるでしょう。しかしそれは、喜びのうちに神から報酬を受ける過程に過ぎません。

 偽善者の断食はどうでしょうか。彼らの断食は、みすぼらしい姿で我慢する姿を人々に見てもらうことを目的としています。言ってしまえば、我慢を目的とした断食です。彼らは、神のために我慢し耐えることで、自らの自己評価を高めていったのです。そのような彼らの心の背後にあるのは、自分よりも神のために我慢をしていない周囲の人々への見下しです。このような、他者を見下しながらなす愛のない断食を、父なる神は拒否されます。これは断食だけでなく、神に仕えるためのあらゆる行動に当てはまります。礼拝においても、献金においても、奉仕においても、伝道においても。あらゆる行動において、人に自らの我慢を見てもらうことが目的となり得ます。こうしてわたしたち自身が偽善者になってしまう誘惑があります。わたしたちの信仰生活は、いとも簡単に自らを高めるための修行になってしまう恐れがあります。そして、自分よりも頑張れない人々を見下しながら、わたしたちは生きてしまうのです。しかし考えていただきたいのです。主イエスは、神のために頑張ることのできる人々のためではなく、それができない罪人のために十字架にかかられました。この恵みを受けた喜びのなかで、わたしたちは断食をはじめとして神に仕えるのです。

 このことは、主イエスが来られた新約の時代から新しく始まったことではありません。旧約の時代から、神は変わらずこのような御心を持ち続けてくださっていました。そのことがよく表れているのがイザヤ書58章3~12節です。断食とは、弱い者に目を留められる神の御心に生きることなのです。このような断食を、祈りを、そして信仰生活を、わたしたちも共になしていこうではありませんか。