聖書箇所:創世記35章1~15節
神の家
本日の箇所で神は、ヤコブに対しベテルに上るように命じられます。ベテルとは、神の家という地名です。そこは神と出会い、神を礼拝する特別な場所でした。ヤコブはかつて、自らを殺そうとする兄エサウから逃げる途中でベテルに滞在したことがあります(創世記28:10以下)。この場所で神はヤコブに夢で現れ、ヤコブがどこに行っても連れ帰ることを約束されました。夢から覚めたヤコブはそこに記念碑を立て、その場所をベテルと名付けたのでした。ヤコブが再びベテルに行くこと。それは28章の神の約束が実現することを意味します。ヤコブがベテルに到着した際には、約束を確かに実現してくださった神のために祭壇を造れと神はヤコブに命じられます。祭壇があるのは礼拝する場所です。ゆえにベテルにおける礼拝へと、神はヤコブを招かれたのでした。
ベテルに上って神を礼拝するにあたり、ヤコブは家族に対して身を清めて衣服を着替えるよう命じます。34章ではディナが汚され、その復讐のために住民が略奪され蹂躙されるという、痛ましい出来事が起こりました。誰もが主なる神を無視し、自らの益のために行動していました。自らの益や復讐を求め、自分の力で生きることそのものが汚れです。それは、外国の神々に従う生き方でもあります。ベテルに行って礼拝するにあたって、このような汚れから自らを清めるようにとヤコブは家族の者に命じました。ですからこの清めは、単に異教的な持ち物を捨てて身なりを整える、という形式的なことではありません。生き方を清めることです。悲惨を生み誰かを傷つけてしまう汚れた生き方から離れることを、この清めは意味しています。このようにして身を清めたヤコブ一家がベテルへと向かいます。その道中、神は周囲の町々を恐れされて、彼らを守ってくださいました。わたしたちが今与っているこの礼拝において、説教の前に信仰告白をしました。この信仰告白をとおして、わたしたちはこの信仰告白に生きる決心をしているのです。これがいわば、わたしたちにとっての清めです。求められているのは、決心です。他者に悲惨をもたらす汚れた生き方を離れ、神に従う決心をして、わたしたちもまた礼拝において神の御前に立つのです。
このようにしてヤコブは無事にベテルへと戻ってくることができました。そこで神は再びヤコブに現れます。そして彼を祝福し、言葉を語られます。神との出会い、神からの祝福をいただき、御言葉が与えられる。これはまさに、礼拝において起こる事です。この礼拝で語られた御言葉が記されています。まずは10節のイスラエルという名付けです。ヤコブという名は、他者を出し抜く彼の生き方を示しています。そのヤコブに、イスラエル(神が戦われる)という名が与えられます。他者を出し抜き踏み台にして生きる生き方から、神が戦ってくださることに寄り頼む生き方へ。この生き方の変革が、礼拝における御言葉によって与えられたのです。次に礼拝において語られた御言葉が11~12節です。ここで神はヤコブに対し、28章の約束を改めて与えられます。それに加えてここでは、ヤコブの腰から王たちが出ることが明かされています。後に起こる王国、そしてその先に誕生する真の王なるキリストによる救いが、この約束においてほのめかされています。生き方を変革する言葉、そして救いを約束する言葉。これらが神礼拝において与えられる御言葉です。今、わたしたちが与っている礼拝においてもそうです。これらの御言葉をいただいて、わたしたちもまた毎週神から励ましが与えられ、新たな生き方へと変えられていくのです。このようなベテルでの神礼拝の後、ヤコブはその場所に石の柱で記念碑を建て、ぶどう酒と油を注ぎます。こうして彼は、神が自らに語りかけてくださったその場所を、ベテル、神の家と名付けたのでした。
ところでヤコブに対するイスラエルという名付けは、32章23節以下においてすでになされたことです。またヤコブがこの地をベテルと名付けたこともまた、28章においてすでになされています。このような、繰り返される名付けに込められた意味を考えてみましょう。32章でイスラエルという名が与えられた後、ヤコブはこの生き方を貫くことができませんでした。一つ前の34章の出来事が、まさにそれを示しています。その彼が、礼拝をとおして改めてイスラエルという名を与えられ、神に頼る生き方を与えられたのです。ベテルという地名についてはどうでしょうか。ヤコブがこの地をベテルと名付けたのは、彼が再びこの場所で神に出会ったからです。神との出会いもまた、一回起こってそれで終わりではありません。彼はこの場所での礼拝で、再び神と出会いました。それゆえに、その場所が改めて神の家、ベテルとなったのです。
この繰り返しは、わたしたちの信仰生活においても起こっていることです。わたしたちはキリストを信じて救われた瞬間に、完全に神に従って生きることができるわけではありません。ときに自らの力に頼って生きてしまいます。それが当たり前の世界の中に、わたしたちは日々生きています。その悲惨の中で生きるわたしたちを、神は礼拝へと招き続けてくださいます。そして礼拝で語られる御言葉をとおして、神に頼るイスラエルという生き方が改めて与えられ、再びキリストの十字架に示された救いの約束が示されます。その御言葉に励まされたわたしたちは、ベテル(神の家)と名付けられたこの教会から、世へと送り出されていきます。それを毎週、わたしたちは繰り返しています。それが、わたしたちの信仰生活です。繰り返されるこの豊かな恵みのなかで、この一週間を歩みだしてまいりましょう。そしてまた来週の主日に、神の家である教会へと再び共に招かれようではありませんか。