聖書箇所:ルカによる福音書18章15~17節
キリストから子供たちを学ぶ
本日は聖書から子供について学んでまいります。イエス様は子供好きであた、と言われています。それは事実でしょう。ただ、子供だけに焦点を当てて聖書から知識なり結論なりを得ようとするのは、十分ではありません。イエス様との関係、そして神様との関係のなかで、子供たちの姿について教えられることが大切です。実際、今日の箇所においてイエス様は、子供たちをとおして神の国について教えておられます。
神の国とは、神の愛を示されたイエス様が王として治められる王国のことです。それはすなわち、イエス様に従いたいと願う人々が集まる場所です。現代で言えば、キリスト教会が神の国の現れです。今日の箇所においても、イエス様の周りにはたくさんの人々が集まっていました。そこに神の国ができつつありました。そこでイエス様は、神の国のメンバーとなるための条件として、子供のように神の国を受け入れよと語られました。これはいわば、神の国の入国審査をパスするための条件です。この条件においてポイントとなるのは、「子供のように」受け入れることです。子供のようにと聞いて、皆さんは子供たちのどのような姿を想像するでしょうか。すやすやと眠る姿、元気に遊ぶ姿、学校で勉強している姿など、様々かと思います。新約聖書の時代において、「子供」と聞いて人々が受ける共通のイメージがありました。それは、「取るに足らない厄介者」です。
子供は厄介者だと言ってしまうのは、不適切かもしれません。しかしあえて今日は、ここから始めたいのです。現代においては、子供はかわいい存在でなければならない、という暗黙のルールがある気がしてなりません。子供がかわいいと思えないと、子育てに悩む方がおられます。イエス様が大切にしておられた子供を自分は好きになれない、と言って悩まれるキリスト者が少なくありません。これらの悩みの背景に、子供はかわいい存在であるべき、という強迫観念のようなものをわたしは感じるのです。しかし聖書の時代は違います。子供とはできれば関わりたくない、というのが共通認識でした。何かをする能力はないのに、迷惑だけはかける厄介者だからです。特にこの場面においてイエス様のもとに連れてこられたのは乳飲み子です。乳飲み子は、ただただお世話を受けるだけの存在に過ぎません。言葉は通じず、ところかまわず泣き散らかします。お世話をしたって見返りをくれるわけでもありません。ただ、親から与えられた物だけを受けて生きるだけの存在なのです。まさに厄介者の際たる例です。
子供が厄介者ならば、乳飲み子を連れて来た人々を弟子たちが叱った理由も分かります。15節には「人々は乳飲み子までも連れて来た」とありますから、すでにイエス様の周りには様々な人がいました。イエス様はそこで忙しく対応され、人々に教えておられます。そんななかで人々は、ついに最たる厄介者である乳飲み子までも、イエス様のところに連れて来ました。そこで、弟子たちは待ったをかけたのです。迷惑をかけるだけで何の益ももたらさない乳飲み子はあっちに行ってくれ、と。これは弟子たちなりに、イエス様に気を使ってのことでしょう。しかしイエス様は、乳飲み子たちを自分のところに来させ、妨げてはならないと言われます。厄介者である子供たちこそが、むしろ神の国のメンバーとしてふさわしいとイエス様は弟子たちに教えらえました。それだけでなく、あなたたちも子供たちのように神の国を受け入れなければ神の国に入ることはできない、とまで言われたのです。
大人こそが、子供たちから学ばなければなりません。見習うべきは、「神の国を受け入れる」という点です。これは贈り物を受け取る際に用いられる言葉です。子供たちは、神の国に何の貢献もできず、迷惑をかけることしかできません。乳飲み子が両親からお世話され乳を飲ませてもらうように、子供たちは一方的に神の国を受け取るほかありません。そのような子供たちこそが、神の国にふさわしいと、イエス様はお示しになられます。大人になりますと、能力も財力も分別もある程度あります。だからこそ、神の国もまた、それらの見返りとして受け取ろうとしてしまうのです。自らの能力で頑張った報酬として、神の国を得ようとします。このような考え方の問題点は、自らを測ったその尺度で、他の人を測ってしまうことです。乳飲み子を連れてきた人々を叱った弟子たちの心の中にあったのが、まさにこの思いでした。自分がイエス様のために頑張っているのに、なんでこの人たちは迷惑を考えずに乳飲み子を連れてくるのだ、と。これは大人の配慮の一環と言えます。しかしイエス様は、この大人の配慮を戒められるのです。
わたしたちがもし乳飲み子の立場で神の国に受け入れられたとしたら、ど厄介者であっても神の国に来くる人を叱ることなどできないはずです。自らも厄介者なのに受け入れられたわけですから。神様から見れば、成人した方々も含めて皆、厄介者の子供に過ぎません。神様に迷惑をかける厄介者のことを、聖書では罪人と言います。子供も大人もみな罪人です。その厄介者を、神様はイエス様の十字架のゆえに神の国に受け入れてくださいます。しかしこの世において力や実績やお金を持っていますと、それが神に愛されるための条件であるかのように考えてしまうのです。この点において、大人は子供から学ぶ必要があるでしょう。わたしたち自身が、神様の前には子供に過ぎないことを知るときに、子供たちを、そしてあらゆる人々を神の国に受け入れることができるのです。そこに、誰もが安心して集うことができる場所が実現します。それがイエス様に従う人々が集まる神の国であり、教会なのです。この教会に、ぜひとも皆さんにつながり続けていただきたいと、心から願っています。