2024年10月6日礼拝説教「あなたの主人は誰か」

聖書箇所:マタイによる福音書6章22~24節

あなたの主人は誰か

 

 本日も、主イエスによる山上の説教の言葉に聞きます。ここから少々唐突に目について取り上げられ、そのあとで24節において二人の主人の話が語られます。特に22~23節は、理解しづらい箇所です。けれども一つ確実に言えることがあります。主イエスは、実際の視力のことを指しているのではないということです。ただし事実として目は、大半の人々にとっては外界との主要な接触点です。これは外から内へ入ってくる情報だけでなく、内から外へ情報にも当てはまります。「目は口ほどの物を言う」という言葉が示すとおりです。人は自らが見ようとするものしか見えていないものです。このように、その人が何を見ているか、という観点から、その人が真に求めているものが明らかになります。ひいてはそれが、体全体の明るさ暗さを示すことにもなるのです。

 では目が澄んでいるとは、いったいどのような意味でしょうか。「澄んでいる」はもともと、健全、単一、単純を意味する言葉です。英語で言うならば、シンプルです。なにもかもシンプルなのがいいわけではありません。けれども目においては、シンプルであることが好ましいと主イエスは語られます。目が澄んでいてシンプルであるということは、その人の求めているものがシンプルだということです。わたしたちがシンプルに求めるべきものは、少し先の33節にある「神の国と神の義」です。ひたすらに神の国と神の義を求める人、シンプルに神御自身を求める人。これが主イエスの示される「目が澄んでいる人」の姿です。

 目が濁っている人はどうでしょうか。「濁っている」は、澄んでいることとの対比です。ですから、求めているものが単一、単純、シンプルではないということです。神だけでなく、それ以外のものも同時に求める姿を指しています。その一例が、神に仕えながら、同時に人々からの評価をも求めていたファリサイ派の人々です。彼らは「主よ、主よ」と言って神の方に目を向けながら、同時に自分を評価してくれる周囲の人々にも視線を向けています。神も人も求める心の内はシンプルではありません。それが、目が濁っている人の姿です。

 またこの箇所では、目だけでなく体についても語られています。目がその人の求める対象を示すなら、体は行動を司ります。その人が何をどのように求めるかは、必ずその人の行動にも表れます。目が澄んでいるなら、あなたの全身が明るいと主は言われます。求めるものがシンプルならば、行動も明快です。わたしたちが持っているものや力には限界がありますが、求めるものがシンプルならば取捨選択もできます。必要ならば、他のものを手放してでも、ひたすらに神の国と神の義を追い求めることができます。こうしてこの人の放つ光が、世を照らすことになります。

 一方目が濁っていますと、全身が暗いのです。求めるものが複数あれば、求めるもののために積極的に犠牲を払うことはしなくなります。自分にとって不都合があれば、他のものを求めればよいからです。その結果、自らの益となる範囲で、神にも人にも接することになるでしょう。あらゆるものを、愛の眼差しではなく打算的な目で見ることになります。打算だけの関係とは、益がなくなればあっという間に解消される関係です。そこに平安はありませんし、神の愛の光もありません。神の愛という光が消え、打算という暗闇の中に生きるほかなくなるのです。

 続く24節では、主人について教えられます。結局のところ、その人が眼差しを向けて求めているものが、その人の主人なのです。主イエスは明快に「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われます。濁った目で、神も人も求める生き方はできません。それは一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかです。「憎んで」「軽んじて」が意図しているのは、優先順位です。二つの主人の言い分が競合したときに、あるいは主人に従うためには何らかの犠牲がともなうときに、それでも優先できる主人は一人だけです。自らが仕えるその主人のために、他のものを手放すことができるか否かが問われています。一人の主人に仕え、愛することしか、わたしたち人間にはできません。それゆえに誰もが、自らが仕える一人の主人を選ぶ必要があります。それは、生きる意味、生きがいにも関わる大切な選択です。だからこそ、わたしたちの選ぶ主人が、自らの人生をあずけるに足る存在か否かを見極めることが必要です。

 24節において主イエスは、神に対立する主人として「富」を挙げられています。この富とは、主人となり得る神以外のすべてのものを指しています。わたしたちが、選ぶべき主人は誰でしょうか。濁った目ではなく澄んだ目でわたしたちを見つめ、打算なしでわたしたちを満たしてくださる主人です。犠牲を払ってでも、シンプルにわたしたちを追い求めてくださるお方です。誰でしょうか。独り子キリストを十字架につけるという犠牲を払ってまで、わたしたちを追い求めてくださった主なる神をおいて他にはいません。

 

 ぜひ、わたしたちもまたこの神を、自らの主人としてまいりたいのです。大変残念ながら、他の主人に仕えながら主なる神を主人とすることはできません。だからこそ改めて、わたしたちは何を主人に生きているか、どこに眼差しを向け、何を求めて生きているのかを問うてまいりましょう。そしてわたしたちを愛し、わたしたちを澄んだ目で見てくださり、シンプルにわたしたちを求めてくださるお方を自らの主人とし、わたしたちもまた澄んだ目でこのお方を見つめてまいりましょう。そこにこそ、打算を超えた愛の眼差しの中で安心して生きる道が備えられているのです。