聖書箇所:マタイによる福音書6章25~34
キリスト者の悩み方
悩むことは辛いことです。できれば避けたいと、大半の方々は願っています。ですから、主イエスが「思い悩むな」と言ってくださるのは大きな励ましです。しかしキリスト者になれば悩みが消えるわけではありません。どのような人にも、その人なりの悩みがあります。人間とは、生きていくうえで何かしら悩みを抱えざるを得ない生き物だとわたしは思います。
ところで悩みは、その人にとっての大切なものの現れでもあります。人は、どうでもいいことのために悩んだりはしません。そのことをふまえて、今日の箇所の冒頭「だから」に目を向けたいのです。この「だから」は、18~24節を受けて語られています。そこで主イエスは、わたしたちにとって本当に大切なものをお示しになられました。そのうえで、「だから、言っておく」と、25節の教えが続いていきます。国語辞典によれば衣食は、「人が生きていくうえで最も大切だとされる着ることと食べること」です。だからこそ、多くの人々はこのことに悩みます。キリスト者も例外ではありません。思い悩むなと言われる主イエスの言葉は、励ましでありつつ、なかなか難しい側面もあります。
ただ主イエスは、悩むことそのものを否定しておられるのではありません。思い悩むなと言われた主イエスの意図は、26~31節に明らかにされています。自分の寿命を延ばすために何を食べようか何を飲もうかと思い悩むこと、そして自分の体に何を着ようかとひたすらに思い悩むこと。それを主イエスは、戒めておられます。そしてこのことを教えるために、空の鳥と野の花をたとえに挙げています。ここで登場する動詞、【26節の種を蒔く、借り入れをする、倉に納める、そして、28節の働く、紡ぐ】は、わたしたち人間が営む基本的な経済活動です。それをしない空の鳥や野の花を、天の父は養ってくださいます。まして、あなたがたはなおさらではないか、と。
主イエスの意図は、弟子たちの視点を天の父へと広げることにあります。わたしたちは、不安に駆られて悩めば悩むほど、自分を守ることばかりに目を向けます。そのようなわたしたちに対して、養ってくださる天の父に目を向けるようにと主イエスは促しておられます。『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』、それらはすべて異邦人が切に求めているものです。ここで言う異邦人とは、神なしで生きている人々です。神がいなければ、自らを守るために思い悩まざるを得ません。しかし今主イエスの言葉に聞いている人々は、その必要はありません。養ってくださる父なる神に目を向けるとき、もはや自らを守るために衣食を求める必要はないのです。しかし、もう何も求める必要がないのではありません。他に求めるべきものがあります。それが33節です。神の国とは神の御意思の実現を、そして神の義とは神の御意思に基づく行動をそれぞれ指します。これらは、主の祈りで祈り求めることでもあります。これらを切に求めること。これこそが、主イエスに従う者の姿です。そしてこれらを求めることをとおして、わたしたちが生きていくために必要な衣食もまた、満たされていきます。わたしたちを養ってくださるのが、天の父なる神の御意思だからです。
そして最後の34節で主イエスはわたしたちに、過度に思い悩むことを戒めておられます。決して、先のことは考えず無計画に歩むことを勧められておられるのではありません。「明日のこと」とは、神にしか分からないこと、神がコントロールされる領域のことです。例えば、わたしの命がいつ終わるのか、終末はいつ来るのかは、わたしたちにはどうすることもできない神の領域です。もちろん死が目の前に迫って来たならば、わたしたちは思い悩むでしょう。しかしそうではないのに、あたかもそれを自らがコントロールできるかのようにして思い悩む必要はないのだと、主イエスは弟子たちに教えておられます。
ならばキリストの従う者は、もはや思い悩む必要はないのでしょうか。そうではありません。むしろキリスト者にはキリスト者の思い悩み方があるのです。神を信じていない人々は、自らの衣食を切に求め、そのために思い悩みます。ならば神の国と神の義をひたすらに求めるキリスト者は、それらのことのために思い悩むのです。神の国と神の義について、悩むべきことは実に沢山あります。その日必要なものに不足する人々がいること、教会になかなか人が与えられないこと、それどころか礼拝に集うことができなくなる方々がおられること。神の国と神の義が、むしろ遠のいていくような現実が、わたしたちの前にはあります。この現実そのものが悪だとは、わたしは思いません。ただ、このような現実のなかでわたしたちは、なお神の国と神の義を切に求め、思い悩めているでしょうか。それらを自分ではない誰かが考えてくれることとして、あるいは神が自動的に満たしてくださることとして、思い悩むことを避けてはいないでしょうか。もちろんわたしたちが思い悩まなかったとしても、神が神の国と神の義を地上に実現してくださるでしょう。しかしもし神の国と神の義のために思い悩まないならば、わたしたちは結局自らの命や自らの体について思い悩むことになります。人は思い悩まずにはいられないからです。そして自らのことをいくら思い悩んでも、満たされることはありません。わたしたちにはどうすることもできない神の領域だからです。しかしわたしたちが神の国と神の義をひたすらに求めた先に、わたしたちの必要は満たされます。それが、キリストの十字架に示された神の御意思です。だからこそ、神の国と神の義を切に求めてまいりましょう。そのために大いに悩みましょう。そのようなわたしたちを、神はあらゆる良きもので満たしてくださいます。