聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章1~10節
行いではなく恵みによって
本日は宗教改革記念礼拝です。宗教改革者ルターが当時のカトリック教会に抗議をした流れのなかで宗教改革がなされ、プロテスタント教会が誕生しました。その際に主張された「恵みのみ」を本日は取り上げます。これは、わたしたちの救いの根拠が恵みのみであるという主張です。その根拠の一つが、5節の「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」の部分です。なお、当時のカトリック教会もまた、救いは神の恵みであると理解していました。プロテスタント教会の強調点は、恵みのみの中の「のみ」の部分にあります。つまりわたしたちが救われた根拠は、100パーセント神の恵みによるのだということです。それが、今日の箇所においても示されています。
この箇所ではエフェソ教会の兄弟姉妹たちに対し、以前の自らの姿を振り返るようにと促しています。1節にある死とは、生物学的な意味ではなく霊的な意味です。神の御前に、死んでいたということです。その具体的な様子が2~3節に記されています。今はキリストの十字架によって救われているエフェソ教会の人々も、かつては不従順な人々と同じでした。救われる前におて、救いからの遠さという面では何も変わりませんでした。彼らの内に、救われるべき根拠は何もありません。霊的に死んでいた彼らは、そこから抜け出す意思も力もありません。わたしたちも皆、例外なく、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした(3節)。それにも関わらず神は、そのような不従順な人々をこの上なく愛してくださいました。キリスト・イエスと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。このような恵みをいただいて救われた人々と、いまだに不従順な生活を続けている人々の違いは、神の愛をいただいたか否か「のみ」です。まさに100パーセント神の恵みであり、恵み「のみ」なのです。
さて、今日の御言葉は、エフェソの教会の状況を鑑みて書かれた手紙です。このときのエフェソ教会の様子を8〜9節から垣間見ることができます。注目したいのは否定の言葉です。自らの力ではない。行いによるのではない。だれも誇ることがないために。これは裏を返せばエフェソ教会の中には、自分の力で、自らの行いによって、自分が救われたのだと誇っていた人々がいたということです。誇るとは、救われていない人々と自らの間に線を引き、線の向こう側にいる人々を見下すことです。つまり、救われた人とそうでない人の関係を優劣で理解していたということです。このような理解の中にある人々に対して、1節で「あなたがたもかつては死んでいた」と、3節で「わたしたちも他の人々と同じではないか」と諭すのです。わたしたちが救われたのは、わたしたち自身が優れていたからではなく、ただ神の恵みによります。この恵みを受け取る手段が、イエスキリストを信じる信仰です。しかしこの信仰すらも神の賜物、すなわち神様からのいただき物です。いただき物ですから、それを持っている人が優れているわけでは決してありません。それがまさに、わたしたちの救いにおいて当てはまります。
このような今日の御言葉を一つの根拠として、「恵みのみ」が主張されました。当時のカトリック教会と、かつてのエフェソ教会に共通する問題があったということです。しかしそれは、カトリック教会だけの問題ではありません。頑張った人が救われて上にいく、という理解には納得感があります。それゆえに誰もが意識的に「恵みのみ」の主張に留まり続けることが必要です。その一方、「恵みのみ」の主張に対し、救われた者の生活はどうでもよいのではないか、という批判が投げかけられることがあります。それに対する答えは10節に記されています。キリストを信じる人びとが、神に従って善い行いをする。それは救われるための条件ではなく、救われた目的に関わる事柄です。恵みのみによって神がわたしたちを救ってくださったのは、わたしたちが善い業を行うためなのです。
例えば、自分の力ではどうしようもない状況に追い込まれたときに、自らの損得を度外視して支えてくれた人がいたとしましょう。危機を脱したあと、その人の思いを無視して生きることができるでしょうか。それこそ不自然な生き方ではないでしょうか。どうしようもない状況に陥ったわたしたちを、自らの損得を度外視して救い出してくださった。この出来事こそ、キリストの十字架です。そこにわたしたちの行いは関係ありません。まさに恵みのみです。こうして救われたわたしたちは、キリストの願われる善い行いを、しないではいられないのです。ここでいう善い行いとは、キリストの十字架によって人々を救いたいと願われる神の御意思に従って生きることです。善い行いをするために、時に頑張ることも必要です。しかしそれは目的ではありません。頑張る頑張らない以前に、救いが恵みのみであるならば、わたしたちは善い行いをしないではいられないのです。このことをパウロもまた、一コリント9章16節で記しています。
善い行いをしなかったからといって、何か罰があるわけではありません。救いが消えてなくなるわけでもありません。それでも十字架の恵みを前にしたとき、わたしたちは善い行いをしないではいられないのです。神に従わないではいられないのです。しないではいられないのですから、そこには他者と比較して自らを誇るという視点はありません。そんなことを考える必要もありません。あるいは、他者と比較して自分の力の弱さに絶望することもありません。それゆえに安心して信仰生活をおくることができます。その平和のなかで、わたしたちは神に従って生きていくのです。これこそ宗教改革において、「恵みのみ」というスローガンのもとに再発見された聖書の恵みの教えなのです。