2024年11月10日礼拝説教「求める者には良い物を」

聖書箇所:マタイによる福音書7章7~12節

求める者には良い物を

 

 求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。今日の箇所で主イエスは、印象的な三つの戒めを語っておられます。これらは祈りを教える御言葉です。祈る相手は、もちろん父なる神です。ひたすら熱心に祈り続けるならば、父が叶えてくださる。分かりやすく、そして恵み深い内容です。一方で、素直に受け取ることが難しい面もあります。神に祈ったことが全てそのまま実現するわけではありません。祈りがなかなかかなえられない現実と、今日の主イエスの言葉をどのように調和させるか、歴史上様々な理解が試みられてきました。神の御心に適う祈りだけが神に聞かれる、と理解する。しかしそのような祈りの限定は、今日の箇所にはありません。あくまで将来に関わる約束だ、と理解することも一つの方法でしょう。しかし8節にある「受ける」「見つける」は現在形です。明らかに地上の歩みにおける出来事として記されています。

 主イエスはこの戒めを親子関係に関連づけて説明されています(9〜11節)。パンと魚は、どちらも生きるために必要な食べ物です。つまりここでの祈りとは主に、わたしたちが生きていくために必要なものを求める祈りが想定されていることが分かります。そして子供が生きるのに必要なものを求めたのならば、それを惜しみなく与えるのは親として自然なことです。わたしたちは悪い者でありながらも、そのことを知っています。ならば天の父は、なおさら祈りに応えて惜しみなく与えてくださいます。それは父なる神に祈るわたしたちが、もはや滅びることはないという約束でもあります。これは、必要を求める以外の祈りは聞かれないということではありません。親が子の言葉に耳を傾けるように、父なる神はわたしたちのすべての祈りを聞いてくださっています。そこに限定はありません。わたしたちの全ての祈りを、神は聞いてくださいます。その上で、必要なものが与えられます。

 ここまでは祈りの内容についてです。しかし祈りの内容に以上に、神とわたしたち祈る者との関係が、親子関係にたとえられている点が重要です。親が子供に、石や蛇ではなくパンや魚を与えるのはなぜでしょうか。その子が素直で良い子だからではありません。親は子供に少なからず手を焼くものです。それでも親は、子供の求めに応じて良い物を与えます。罪人である人間の親子関係ですらそうなのです。それならば父なる神は、わたしたちが悪い者であったとしても、祈りを聞き、わたしたちに良い物を与えてくださるのは当然のことです。わたしたちが悪い者であっても、神はわたしたちの祈りを必ず聞いてくださいます。そして生きるために必要な物を、惜しみなく与えてくださいます。この神に信頼して祈れと、主イエスは教えておられます。しかしわたしたちには、神に祈れない現実があります。それは「悪い者でも祈りを聞いてくださる」という神への信頼が失われているからです。悪い者の言葉は聞いてもらえない。それが世の常識だからです。しかしこのような常識を超えて、神に信頼して祈るよう主イエスは命じておられます。神は、罪人であるわたしの祈りを確かに聞いてくださっている。この信頼の中でこそ、神に熱心に祈ることができるのです。

 続く12節で主イエスは、もう一つのことを命じておられます。律法と預言者とは、聖書に記された神の御心を指しています。またこの12節は、あなたの隣人を自分のように愛せという教えと同義であり、その内容とも言えます(マタイ22:38~40)。これほど重要な12節が、「だから」という言葉で11節までの内容と結ばれています。わたしたちが罪人であろうとも、神は祈りを聞き、よきものを与えてくださるお方である。「だから」、あなたがたも人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがた「も」人にしなさい。これが主イエスの教えです。わたしたちの祈りを聞いてくださる神が、そのようなお方だからです。父なる神は、子の祈りを聞いて惜しみなく生きるための必要を与えてくださるお方です。そのために神は、独り子キリストをもわたしたちに与えてくださいました。わたしたちが滅びることなく生きるために、キリストの十字架が必要だからです。

 これほどの恵み深い神に祈る者が、神の恵みを体現して生きるようにと12節で命じられています。ここで求められているのは、祈りと生き方の統合です。祈りに生きるということです。わたしたちの祈りに応えて、父なる神はわたしたちが生きるために必要なものを与えてくださいます。父なる神に祈るわたしたちが、命を失って滅びることなどありえません。だからこそ、この祈りにあなたも生きよと、主イエスは命じられます。その具体的な内容が、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい」なのです。ここで「人」というとき、それは自分が愛しやすい人か否かは関係ありません。なぜなら父なる神は、悪い者であるわたしたちの祈りをも聞き、良い物を与えてくださるお方だからです。わたしたちが神への祈りに生き始めるとき、わたしたちの祈りもまた満たされていくのです。

 

 神が悪い者であるわたしたちの祈りをも必ず聞いてくださり良いものを与えてくださるお方であると確信して祈るとき、わたしたちの生き方もまた、自分に都合の悪い人びとの声をも聞く生き方へ、悪人にも与える生き方へ、さらにいうならば、敵をも愛する生き方へと変えられていくのです。そこにこそ、そこにいる誰もが必要を満たされ、誰も滅びることなく永遠の命を与えられる神の国が実現します。今日、わたしたちはこの礼拝の主の祈りで「御国を来らせたまえ」と祈りました。恵み深い父なる神は、この祈りに応えてこの神の国を必ずここに来たらせてくださいます。その信頼の中で、人びとの声に耳を傾け、人びとを愛して生きてまいろうではありませんか。