聖書箇所:創世記35章16~29節
苦しみを幸いに
創世記は本日の箇所において、ヤコブが中心となるお話が一つの区切りとなります。そして36章でエサウの子孫たちのことが記されたあと、ヨセフ物語が始まります。今日の箇所は、ヤコブ物語のエピローグでありヨセフ物語のプロローグでもあります。そこにはラケルの死、ヤコブの息子たちのリスト、イサクの死が次々に記されます。34章からの流れから見ていくと、その関連性と意味が見えてまいります。
34章にはシケムでの出来事が記されていました。そこで起こったのは、端的に言ってしまえば、レイプと殺人です。どちらも、この世の地獄と言ってもいい出来事です。この世に神などいるのかと疑いたくなるような惨状があり、そのなかでヤコブもまた神なく歩んでいました。そのようなヤコブ一家を、35章で神はベテルへと招かれます。そこは神と出会う礼拝の場です。ヤコブは一家共々、それまでの悲惨な歩みを脱ぎ捨てて神礼拝へとおもむきました。そこでヤコブにイスラエルという名が改めて与えられ(10節)、神と共に生きる歩みが与えられました。そして11節で改めて、神は祝福の約束をヤコブに与えてくださったのでした。神の救いの約束が実現してくための特別な器として、ヤコブとその子孫たちを神は選ばれました。このような34章からの流れにおいて、ヤコブとその一家は神の救いの恵みに与り、神の救いのために用いられる器として特別に選ばれ、神の民として召されました。この一連の出来事は、わたしたち一人ひとりにも起こったことです。キリストの十字架によってわたしたちは世の悲惨から救われ、神を礼拝する場所へと今こうして導かれています。そしてわたしたちもまた、神の約束の実現のための器として選ばれ、神の民として召されています。
それに続く今日の箇所からは、この恵みに与ったヤコブとその一家の、その後の歩みが記されています。彼らにまず起こったのは、ラケルの死でした。息子に「私の苦しみの子」と名付けるほどに、彼女は苦しみぬいて死にました。ヤコブにとってラケルは、最愛の妻でした。彼にとってラケルの死は、自らの体の一部を失うような悲しみであったはずです。しかしそれだけでは済みません。22節には、彼の長男ルベンが父の側女ビルハのところへ入って寝たことが記されています。問題は単なる性的な不品行には留まりません。ルベンにとってビルハは、側女とはいえ父の妻です。父の妻と性的関係を持つことは、律法に示された神の御心に反します(レビ20:11、申命27:20)。神に特別に選ばれた神の民が、御心に反して行動しています。しかしヤコブは、ルベンのこの行動をただ聞くだけです。非難したり罰したりできないほどに、父と子の間には緊張関係がありました。もはや親子関係は、冷え切っていました。続く23節からはヤコブの息子たちが、誰から生まれたかによって分けられています。どの母から生まれたかで、兄弟の間にも分裂がありました。この緊張関係が、この後のヨセフ物語においてはヨセフがエジプトに売られるきっかけとなります。親子関係だけでなく、兄弟関係も冷え切っています。これが、神を礼拝する人々、神の約束の実現の器として特別に選ばれたヤコブ一家の姿です。決して理想的な家族ではなく、神の御心からは逸脱しています。弱さにまみれ、愛し合うのではなく互いに敵意を向けあう罪深い家族に過ぎません。ここから示されるのは、神の救いの約束の実現がそれを担う人々の立派さや忠実さに依存するのではない、ということです。神の救いの実現は、どこまでも神の御業と神の御力によります。それが示されるためにも、欠け多き人々を、弱さと罪の中でもがき苦しむ人々を、神は約束の器として特別に選ばれるのです。このことは、わたしたちにも、そのまま当てはまります。
しかし神はこの一家を、暗闇の中に放置されることはありませんでした。最愛の妻ラケルの死の悲しみに沈むヤコブに、希望の光をも与えてくださいました。死にゆくラケルにとっては苦しみの子であったその子は、父ヤコブにとって幸いの子ベニヤミンでした。神は自らの民に対して、あたかも宝くじが当たるように、何もないところからただ喜びだけを与えられるのではありません。最愛の人の死のような深い悲しみのただ中でこそ、神は大いなる幸いを与えられるのです。このことは、イサクの死においても同様です。死そのものは、悲しみの出来事です。しかしそこには、高齢の内に満ち足りて死んでいくイサクの姿があります。さらに、協力して父を葬るエサウとヤコブの姿があります。かつて殺意を向けるほど壊れてしまった彼らが確かに和解したことが、この父の葬りの姿に示されています。
このような慰めと和解が起こったのは、ヘブロンのマムレでした。この場所は「この土地をあなたと子孫に与える」という神の救いの約束が最初に実現した場所です。死の悲しみの中で神が与えてくださる光。その土台には、神の救いの約束があります。そして神の救いの約束が、究極的にはキリストの十字架の死と復活による罪の赦しとして実現することになります。このキリストの十字架にこそ、死という暗闇のなかで光をお与えになる神の幸いが最もよく現れています。
この恵みに与ったわたしたちもまた、神の御心から離れた罪人に過ぎません。共に救われた兄弟姉妹の交わりにすら、神の御心とはほどとおい現実があります。しかしそのなかでこそ、神は幸いを与えてくださり、キリストの十字架と復活の恵みは輝くのです。暗闇の現実がこの世の中にはあり、わたしたちもまたそのなかで重荷を負い、涙を流しながら生きています。その暗闇の中でこそ、神の救いの恵みは輝くのです。この光を仰ぎ見ながら、悩み多き世の旅路へと共に遣わされてまいろうではありませんか。