2024年12月1日礼拝説教「この事の起こる日まで」

 

聖書箇所:ルカによる福音書1章5~20節

この事の起こる日まで

 

 本日からアドベントに入ります。この期間は、ザカリアという人物に着目し、その歩みをたどります。クリスマスの物語においては、博士たちや羊飼いたちのように、主イエスの誕生を喜び讃える人々の姿が印象的です。しかし今日の箇所でザカリアに起こったのは、逆のことでした。ザカリアは、言葉を発することができなくされました。御言葉を宣べ伝えなさいとは言われますが、黙っていなさいと言われることはあまりありません。しかしザカリアの口が利けなくなったこの出来事から、クリスマスの喜びの知らせがどのようなものなのかが示されています。

 まずザカリアの人物像についてみてみましょう。彼は祭司でした。12組ある祭司の組のなかでアビヤ組に属していました。その妻は、アロン家という祭司の家系に属するエリサベトでした。二人とも神の前に正しい人でありました(6節)。「非の打ちどころのない」とは、「恥じるところがない」という意味の言葉です。周囲の人からも認められている信仰者であったことでしょう。彼らは理想的な夫婦であり、また理想的な信仰者でした。しかし彼らには子供はなく、二人ともすでに年をとっていました。子供がないということが、この当時は今以上に辛く不幸な時代でした。一般的な人々よりも神に頼って信仰的に生きている人々が、一般的な人々よりも不幸な状況に置かれています。神に頼って生きている人に、なぜこのようなことが起こるのか。そう言いたくなる出来事が、今でもよく起こります。ザカリアとエリサベトもまた、そのような状況に置かれていました。

 そんなある日、ザカリアにくじが当たります。彼は主の聖所に入って香をたくことになりました。このくじに当たる確率は、一生に一度あるかどうかでした。祭司として一世一代の大仕事です。そのような大切な働きを務めていたザカリアのところに、主の天使が現れます。恐れるザカリアに天使は話しかけます(13~17節)。そこで告げられたのが、洗礼者ヨハネの誕生でした。創世記では、年老いたアブラハムとサラの間にイサクが与えられました。同じように、年老いたザカリアとエリサベトの間にヨハネが与えられると告げられます。こうして生まれるヨハネは主に先立って行き、主のために備えをする偉大な人になると言われています。この天使の言葉は、ヨハネ誕生後に、救い主が来られることをも示しています。それはまさに、クリスマスの喜びの知らせでした。

 これに対するザカリアの言葉が18節です。天使の語った言葉が常識を超えてあまりに喜ばしことであるがゆえに、ザカリアはにわかに信じることができません。それゆえに彼はしるしを求めます。それに対する天使の答えが19~20節です。天使が語る言葉は、神から伝えることを命じられた言葉であり、神の御言葉です。それを信じられなかったザカリアに対し、このことが起こる日まで口が利けなくなり話すことができなくなると、天使は告げます。そして実際にそのとおりになるのでした。

ザカリアが口を利けなくなったのは一見すると、御言葉を信じられなかった不信仰に対する罰であるかのように見えます。しかしそれには無理があります。ザカリアが、神の前に正しい人だとわざわざ紹介されているからです。 また神は、しるしを求めた人を罰するお方ではありません。典型的なのは、イザヤ書7章10~11節です。そもそももし天使の言葉が、信じなければ罰せられるようなものならばどうでしょう。それは「喜ばしい知らせ」ではなく、恐怖と脅しの言葉です。クリスマスの知らせが、そんなものであるはずがありません。

 もちろんザカリアがそれを聞いた瞬間に信じることができるのが理想かもしれません。しかし神の前に正しいザカリアすらもすぐには信じられないほどに、天使の告げたことは驚きの内容だということでもあるのです。自らの息子の誕生という、もはや当の昔にあきらめていた希望をかなえるだけでなく、さらにその先に全人類の救い主が誕生するのです。彼が信じられなかったのは、ある意味で当然のことです。そしてそれを信じることができるように、ザカリアは口が利けなくされました。このことはまさに、ザカリアが神の御言葉を信じるためのしるしなのです。

 

 またザカリアの口が利けなくされたことには、神の御意思が込められています。それは救い主の誕生の御言葉を信じられないうちに、そのことを語ってほしくないということです。喜ばしいクリスマスの知らせは、神の御言葉を信じる人によって語られてほしい。これが神の御意思なのです。神の前に正しいと言われるほどの立派な人にではなく、神の恵みの御言葉を信じる人々にこそ、キリストの誕生という喜ばしい知らせを語ってほしい。神はそう願っておられます。クリスマスがキリストの誕生をお祝いするイベントであるということは、キリスト者でなくても知っています。しかしそのような人々にではなく、神の救いの恵みを体験し、その御言葉を信じる人々によって、クリスマスの喜びの知らせが語られなければならないのです。ですから、アドベントのときを過ごすわたしたちがまずすべきことは、ザカリアのように神の前に正しい立派な信仰者になることではありません。まず神の救いの恵みを、身をもって体験することです。そのことによって、神の御言葉が確かに実現すると信じることです。わたしたちはこのあと聖餐式に与ります。そこで神の驚くべき救いの御業とその恵みを体験し、神の御言葉が確かであることを、確信しようではありませんか。そのことをとおしてわたしたちは、クリスマスの上ない喜びの知らせを告げる者とされて、世に遣わされていくのです。